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No.425 若手を中心に変わる塩釜、地域の魅力を取り戻せ!

2016年3月11日
編集部

若手を中心に変わる塩釜
地域の魅力を取り戻せ!

 東日本大震災から5年――、復興は次のステップに移る。かつての被災地は復旧だけでなく、地域本来の魅力を取り戻そうと地場産業の立て直しを進めている。本紙主催の「第36回プロが選ぶ土産物施設100選」で初入選を果たした、水産加工業を営む「直江商店」(宮城県塩釜市)の直江僚大社長に、復旧までの道のりと、生産者としての地場産業復興への想いを聞いた。

【丁田 徹也】

 
 
 
 ――塩釜市のかまぼこ製造業と貴社について。

 昭和50年代にかまぼこ製造会社は80社ほどあり、日本一の生産量を誇る地域でした。産業が衰退して24社にまで減りましたが、生産量日本一は揺らぎませんでした。震災によって販売の機会を失う業者が相次ぎ、その座を譲ることになりましたが、塩釜市の基幹産業には変わりありません。当社も長年にわたり販売を続け、白身魚と大豆を材料に「おとうふかまぼこ」も開発しました。地域に愛されるお店を目指しています。

 ――被災当時のようすを教えてください。

 会社は塩釜湾の目の前に位置しており、船を停泊させるために設置された20㍍ほどの巨木が津波の勢いで何本も社屋に突き刺さり、全壊しました。津波自体も1階の天井の高さまで迫りましたが、周辺で全壊したのは当社を含め2軒だけでした。もう1軒も海辺のかまぼこ屋さんでした。

 社員は全員近くの山に避難していたので無事でした。この地域は1960年のチリ地震時にも大津波の被害を受けているので「大地震が起きると津波がやってくる」という防災意識が根付いていたことが幸いしました。

 震災直後は、社員の家の状況が落ち着くまで休みとしましたが、全壊の社屋を前に会社再開の目途がつかず、結局休業することになりました。社員からは「このまま雇用状態が続いても会社に負担がかかるだけだ」とご配慮いただき、やむを得ず、仕事が再開できるまで退職していただくことになりました。

 周辺地域の工場は全壊がほぼ無かったので、水道が復旧した3月末ごろからガレキを撤去し、営業再開に向けて準備を進めていました。当社は従業員が少なくなり、ガレキの片づけすら進みませんでしたが、ちょうど被災状況の取材に来たテレビクルーにボランティア団体の存在を教えてもらい、4月はじめにはボランティアの方の協力によってガレキを撤去できました。しかし使い物になるものはなく途方に暮れる日々でした。

 さらに、専務は当時の社長の弟でしたが、体調を崩し6月に引退してしまいました。社長自身も60歳を超えていたので「清算した方が(店をたたんだ方が)いいかもしれない」と皆で考えたこともあります。

 ――再開することになったきっかけは。

 お客様です。例年6月ごろにお中元の申し込みが多くなります。会社宛ての電話は私の携帯電話に転送していたのですが、1日数十件の電話があり、現況を伝えるたびに営業再開を望む皆様のお声をいただいたのです。この声が原動力となり、当社は再び立ち上がることを決意しました。当時の社長からは「立ち上げるなら代替わりだ。ゼロからお前が指揮を取れ」と言われ、常務だった私が社長に就任することになりました。…

 

※ 詳細は本紙1621号または3月17日以降日経テレコン21でお読みいただけます。

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