No.454 ホテルグランメール山海荘、ごく自然に無理なく「高み」へ
ホテルグランメール山海荘
ごく自然に無理なく「高み」へ
高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客様の強い支持を得て集客している宿の経営者と、工学博士で、サービス産業革新推進機構代表理事の内藤耕氏が、その理由を探っていく人気シリーズ「いい旅館にしよう!Ⅱ」の第10回は、青森県・鰺ヶ沢温泉のホテルグランメール山海荘の杉澤むつ子取締役会長が登場。古き良きものを愛でるように大事に使う宿にしたいと話す杉澤会長と内藤氏が、お客に伝わる清掃スタッフの想いなどについて語り合った。
【増田 剛】
〈「いい旅館にしよう!」プロジェクトⅡシリーズ(10)〉
ホテルグランメール山海荘
内藤:宿を始めたのはいつごろからですか。
杉澤:第2次世界大戦中の1942(昭和17)年に政府は、石油掘削のために地質調査し、現在水軍の宿がある場所を堀ったら温泉が出ました。先々代は本家(卸商)の問屋の番頭や、その後東京の兜町でメッセンジャーボーイなどをやっていましたが、この温泉の権利を買い、銭湯を始めました。各家庭にお風呂が無かった時代で「温泉の大衆浴場ができた」と大盛況だったそうです。
一方で、京都の着物屋さんや越中富山の薬売りなども鰺ヶ沢を訪れたときに、「泊めてほしい」という要望が多く、宿も始めたということです。
内藤:どのようにして施設を大きくされたのですか。
杉澤:鰺ヶ沢は、港町ですので、旅館は元々ありました。うちは温泉があることが強みとなって、戦後少しずつ拡張を繰り返していきました。
内藤:2代目社長となるご主人の慶祐さんと一緒に、鰺ヶ沢に戻ってきたのはいつですか。
杉澤:私は青森県のつがる市(旧木造町)出身で、主人とは東京で知り合いました。長男の廉晴(3代目社長)が1歳半になるまで東京で生活していました。
鰺ヶ沢に帰ってきたのは、1974(昭和49)年の夏です。帰るとすぐに山海荘本館の前に、山小屋風のコーヒーショップを作りました。たまたまカウンターの中で留守番をしていたら、映画『八甲田山』ロケ地を探していた森谷司郎監督が訪れ、「ここに決めた」と言われました。その後、撮影のため高倉健さんが昔の面影が残るホテル山海荘の本館に滞在されたのが印象的でした。
79(昭和54)年に本館の隣接地に鉄筋コンクリート5階建てのホテルを新築しました。「鰺ヶ沢に宿を建てても、観光客は来るの?」と周囲から心配されましたが、銀行の融資もあり、約3億円を投資しました。当初の売上高は3千万円ほどでした。
内藤:それまでは何部屋でしたか。
杉澤:本館は2階建で20室の建物でした。夏に水泳や野球などの合宿で学生たちが来られるときだけ開けています。今は川の拡張工事があるので、クローズしています。
内藤:姉妹館の水軍の宿はどういう経緯で建てたのですか。
杉澤:温泉の権利を買って営業していた大衆浴場は、地元のお客様に利用いただいていました。そのうちに、地元のお客様からの「サウナがほしい」「近代的な設備がほしい」といった声も聞こえてきました。そのような願いを、主人と私はできる限り叶えていき、自給自足の考えを持とうと思っていました。「このまちにはアレもない、コレもない」と愚痴ばかり言わないで、「無いものは自分たちでできるものだったら作ろう。それで地元の人たちが喜んでくれたらいい」との考え方です。駐車場も手狭になってきたので、新しい場所にまず広いお風呂を作り、そこに旅館の機能を付け加えました。水軍の宿のオープンは1993年です。…
※ 詳細は本紙1662号または3月7日以降日経テレコン21でお読みいただけます。