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No.457 福一・旅邸諧暢楼、“人間”を主体にIT化進める

2017年4月1日
編集部

福一・旅邸諧暢楼
“人間”を主体にIT化進める

 高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客様の強い支持を得て集客している宿の経営者と、工学博士で、サービス産業革新推進機構代表理事の内藤耕氏が、その理由を探っていく人気シリーズ「いい旅館にしよう!Ⅱ」の第11回は、群馬県・伊香保温泉「福一」の福田朋英社長が登場。超富裕層を対象に”本物”を提供する旅邸諧暢楼のコンセプトや、外国人労働者の受け入れへの危惧、生産性向上を意識する風土づくりなど、福田社長と内藤氏が熱く語り合った。

【増田 剛】

 
 

〈「いい旅館にしよう!」プロジェクトⅡシリーズ(11)〉
福一・旅邸諧暢楼

 ――宿の歴史から教えてください。

福田:戦国時代の長篠の戦い(1575年)のあとに、武田勝頼が家臣に負傷兵の療養場所を整備させ、今の伊香保温泉街の原形が作られました。日本最古の都市計画に則った温泉地であり、石段街もそのころにできました。私どもの初代が伊香保に入植したのは1584年で、私が17代目になります。もともとは千明仁泉亭さんのすぐ下の方にありましたが、明治初期に上に移りました。

内藤:江戸時代、明治、大正、昭和初期までは湯宿として経営されていたのですか。

福田:そうですね。何回か、大火で焼けました。1920(大正9)年の火災のときは、私の祖母も子供を抱えて榛名山の方まで逃げたそうです。火災によって宿もリニューアルを繰り返してきました。

 1877(明治10)年に「諧暢楼」を建てましたが、1920年の大火事で焼けて、翌21年に「福一楼」が作られました。

内藤:観光旅館というかたちですか。

福田:湯治場です。私が子供のころも、夏の間ずっと滞在される宿泊客も多く、昼などは“店屋物”を取っていました。地元の人よりもお客様の方が「あそこの店は美味しい」などを知っていました。その前の時代は、お米を持参して長く湯治をされていました。

内藤:福田社長が子供のころまで、湯宿としての長い歴史の面影が残っていたのですね。

福田:福一楼は湯宿というよりも、大きな旅館でした。鉄筋コンクリートにしたのは早かったですね。1929(昭和4)年に4階建てに改築して、水洗トイレを備えました。当時としては珍しかったそうです。戦時中は強制的に隣の旅館と廊下でつながれ、陸軍病院として使われていた時期もありました。

 1945年に戦争が終わり、旅館業を再開しました。50年5月に私の父が16代目として「株式会社福一旅館」を設立しました。59年には木造の建築物を壊し、地上4階地下3階の鉄筋コンクリート造りで、エレベーター付きの建物を建てました。エレベーターは当時、関東でも珍しかったようです。水洗トイレやエレベーターなど、代々“新しい物好き”で、進取の気性はあったようです。

 私どもの中興の祖は母だと思っています。父が59年に社長に就任ましたが、「地元の郵便局長に」と白羽の矢が当たり、宿は母が一手に引き受けていました。呼び鈴が鳴ると、母親がすぐに立ち上がるので、母とゆっくりと食事をした記憶はほとんどありません。このため私は、「旅館業だけはやりたくない」と強く思うようになりました。お客様からも「あんたが長男か。跡継ぎだな」と言われることがすごく嫌でした。

内藤:福田社長が大学を卒業後欧州に行かれ、そのあと宿に戻って来られたのは何歳のときですか。

福田:30歳になる直前でした。1982年です。ドイツのテレビ局で記者をやっていました。日本に帰って宿を継ぐ気はまったくなかったのですが、弟も、妹も宿をやらないということになり、新館「万葉館」を建てるために帰ってきました。建築会社の選定や交渉、資金調達まですべて任され、そのお陰でとても勉強になりました。

 当時は儲かって仕方ない状況でした。オイルショックで全国の旅館の平均定員稼働率は20%台まで落ち込んだとき、当館は78%の高稼働で推移していたので、驚異的な目で見られていました。

 私は、この78%を100%まで近づけたいと思い、まず実施したのが「レディースデー」プランでした。…

 

※ 詳細は本紙1666号または4月6日以降日経テレコン21でお読みいただけます。

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