No.459 白玉の湯 華鳳・別邸越の里、社員が皆、同じ「型」を持つ宿に
白玉の湯 華鳳・別邸越の里
社員が皆、同じ「型」を持つ宿に
高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客の強い支持を得て集客している宿の経営者と、工学博士で、サービス産業革新推進機構代表理事の内藤耕氏が、その理由を探っていく人気シリーズ「いい旅館にしよう!Ⅱ」の第12回は、新潟県・月岡温泉「白玉の湯 華鳳・別邸越の里」の飯田美紀子女将が登場。「宿に定まった型があるからこそ、お客の動きが見えてくる」と内藤氏が語ると、飯田女将も「社員が皆、同じ型を持つことが大事」と応じるなど話題は多岐にわたった。
【増田 剛】
〈「いい旅館にしよう!」プロジェクトⅡシリーズ(12)〉
白玉の湯 華鳳・別邸越の里
内藤:創業されたのはいつですか。
飯田:1967(昭和42)年に、木造2階建ての客室8室と、中広間1室で開業しました。その後、75年に法人組織「ホテル泉慶」としました。
開業当時はまったくお客様がいない状況で、先代の実母(橋本キヨ女将)は新潟市内のタクシー会社を回りました。当時、タクシーの運転手は夜遅くお客様を乗せても泊めてくれる宿がほとんどない状況でした。深夜だと新潟市内から約30分で月岡温泉まで来られるので、「おひとりでも連れて来てください」と頼み込み、タクシー会社に手数料も払ったと思います。
母は夜中に到着されるお客様にも対応できるように、いつも洋服を着て寝ていました。「夜遅く来たのに、女将におにぎりを握ってもらった」とお客様に感謝され、次にお越しになられるときには早い時間にいらしていただけるようになり、お客様が次第に増えていきました。
もともと月岡温泉の多くの宿は湯治の自炊旅館でした。82年に上越新幹線が新潟まで開業し、85年に関越自動車道がつながったことで、当館も増築と改築を繰り返しました。バス・トイレ付の客室は月岡温泉で最初に作りました。今でいうVIPルームです。
90年に約3万坪の土地を買い、新館「華鳳」を97年に開業しました。オープン後、バブル崩壊によってどんどん景気は悪くなっていましたが、華鳳の開業人気に支えられて不景気の影響はあまり感じませんでした。しかし、01―02年ごろから売上も落ち、流れが悪くなってきました。面積も、人件費も2倍になったにも関わらず、売上は半分ほどに減少しました。厳しい経営状況のなかで02―04年の間に両親が亡くなりました。
――泉慶の姉妹館「華鳳」、さらに「別邸越の里」はどのような理由で建てられたのですか。
飯田:母はお客様に喜ばれようと、工事を繰り返していました。泉慶は増築、改築を繰り返したため、眺めのいい部屋や、古い部屋などが混在し、旅行会社にとっては団体客の部屋割が大変でした。大きな団体のお客様が来られても「同じような客室を提供できるように」と華鳳を作ったのです。
そのうち、「華鳳はいつ行っても、団体客のように同じ部屋ばかりで面白くない」というリピーターのお客様も増えてきました。このため、07年には全20室がそれぞれ趣の異なるプライベートスイートの「別邸越の里」を開業しました。
内藤:先代からは、どのようなことを伝えられたのですか。
飯田:とにかく「お客様が第一」ということが根底にありました。
「どんなことをしてでもお客様の要求を叶えてあげましょう」と母から教えられてきました。どうしたらお客様が喜び、感動され、笑顔になっていただけるか。感謝をいただくには私たちがどのような振る舞いで接するべきか――といったことです。
とくに、お辞儀の仕方は細かく教わりました。お客様をお出迎えするときは、「あまり深く頭を下げ過ぎないように。初対面のお客様に頭を下げ過ぎてしまうと、あなたのお顔が見えないから、ちょっと横を向いて、笑顔を見せてね」と。
また、お見送りのときは、「必ず笑顔で、しっかりと頭を下げて」と言われました。
母は私たちの前では社員を叱りませんでした。どこで叱ったのかわかりません。おそらく役員室にコーヒーなどを持って来てもらったりしたときに、時間をつくって会話を交わしていたのだと思います。皆の前ではなく、社員と向かい合って「どうだったの?」と話を聞いてあげていたのではないかと思います。私自身もあまり叱られた記憶がありません。でも、今から考えると、しっかりと教えを受けているのです。…
※ 詳細は本紙1668号または4月27日以降日経テレコン21でお読みいただけます。