潜伏キリシタンの島々巡る ~家御堂、旧野首協会~ 【後編】 【再掲】
2018年7月4日(水) 配信
上五島を巡ったあと、小値賀島に渡った。廃屋のような建物を過ぎると突然、木のくいの板に「教会」の2文字と矢印が書かれた案内板に気付く。
小ぢんまりとした小値賀教会は、外側からでは教会だとはわからない。そのはずで、小値賀教会は家屋などに礼拝所を設けた質素なもの。弾圧直後に資金や資材が無い時期に建てられたもので「家御堂(いえみどう)」と呼ばれている。
「(小値賀に来て)44年になります」。土川シスターは、長野県・八ヶ岳の麓にある修道院からこの地へ来た。白髪を後ろでひとつにまとめ、白と黒のチェック柄のジャケットを羽織っていた。信徒との過ぎし日々をゆっくりと話してくれた。
「ある奥様が信者で、旦那様を信者にしたいと思っていました。そこで信者であることを告白したら、その旦那様が奥様を訴えてしまった。こんなふうにとっても厳しい時代だった」。
教会建築を3つの段階に分けると、最も新しいものが鉄筋コンクリート建築。次いで鉄川氏の時代にあるレンガ造りなどの教会となる。そして、弾圧直後に建てられたものが、小値賀教会のような家屋などに礼拝所を設けた「家御堂」となる。
「いまは家御堂がほとんど残っていない。祈りの原点を感じさせてくれるとても貴重なもの」(入口氏)。家御堂はより人と人との距離が近い。生活の余裕が無いなか、弾圧後に皆でミサをあげる喜びを噛みしめることができた場所でもあるのだ。
□教会という言葉
家御堂がある小値賀島は大小17の島からなる。このうちの1つが野崎島。野崎島には集落が3つあり、野首集落と舟守集落の2つを潜伏キリシタンが切り開いた。
最盛期には650人ほどが居を構えていた。ただ昭和30年代の経済成長のあおりを受けて40年代には廃村となった。150年ほど続いた野崎島におけるキリスト信仰は、継ぐ者がいなくなった。管理人以外はいないほぼ無人の島となっている。
外海地域から流れてきた信徒は、廃村後、小値賀島に流れていく。
勾配が厳しい山肌には石垣が残り、そこここに岩が転がっている。島は国立公園に指定されており、約400頭のニホンジカがのんびり草を食んでいる。
いくつかの坂を上り下りすると、旧野首教会が見えてくる。今年で竣工からちょうど100年が経つ。信徒が誰もいなくなった地に佇む。
その時代、教会という言葉は2つの意味があった。建物そのものの意味と、人間生活内の組織としての「教会」だ。
「壊れん教会ば作ってくれろ」。当時の信徒たちは鉄川氏に、祈りの場が無くならないようにと依願した。しかし高度経済成長期以後、廃村となった。
入口氏は「旧野首教会は建物としてではなく、組織としての教会が崩れた。自らの組織を壊さざるを得なかった、島を離れるしかなかったという悔しい思いを感じ取ってほしい」と話した。
鉄川氏は仏教徒だった。教会建築に従事したのは信徒。鉄川氏の時代に入り、初めての共生の証しが、教会建築だったという。
「仏教徒の棟梁の指示のもと、自分たちの祈りの場をつくっていく。この段階から、差別感情を乗り切って共に生きていこう、という生き様がみえてくる」と入口氏は旅を振り返った。ステンドグラスに西陽が落ち、床に色が抜けていた。
問い合わせ=長崎県平戸・小値賀・上五島観光ルート形成推進協議会(長崎県小値賀町役場産業振興課)、tel=0959(56)3111。
※この記事は本紙4月21日付第1710号で掲載したものを、再編集した記事になります