【特集No.589】武井功氏インタビュー 「新しい次の道」へ仕組みづくりを
2021年8月21日(土) 配信
「信州田沢温泉 富士屋」(長野県・青木村)の社長に武井功氏が就任する。武井氏は「旅の宿 滝の湯」(長野県・戸倉上山田温泉)を経営していたが2018年に倒産。その後、さまざまな経験をしながら、旅館業に戻ることになった。「代々続く大型旅館を手放しても、新しい次の道がある」仕組みを作りたいと語る武井氏は、「自分が1つの道標になりたい」と人生の第2ステージを歩み始めた。富士屋を訪れ、武井氏にインタビューした。
【増田 剛】
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――波乱万丈な武井さんの半生からお話いただけますか。
1929(昭和4)年に祖父が長野県・戸倉上山田温泉に「旅の宿 滝の湯」を創業しました。そして父が1950年ごろに祖父から宿を買い取りました。
私には別の道に進んだ年の離れた兄もいましたが、中学に入ったころから、父には「お前が後継ぎだ」と言われていました。早くから宿の手伝いをしていましたし、高校を卒業すると、自然なかたちで働き始めました。
布団敷きや洗い物、風呂掃除、送迎など何でもやりました。父が旅行作家や旅行雑誌の編集者らとの付き合いがあったため、旅好きの個人客が多かった記憶が強く残っています。
高校2年生だった1979年に宿が火事で全焼しました。翌80年10月に新たに離れの10室の宿をオープンし、燃え残った4室と合わせて14室で営業していました。
96(平成8)年12月には、焼け残った4室を壊して12室の新館を建てました。これで合計22室になりました。
20歳を過ぎたころ、上諏訪温泉の「布半(ぬのはん)」で1年間、修業しました。うちは母親の女将を中心に、家族・親族経営でしたが、布半は既に企業経営で、「同じ旅館でこれほど違うのか」と驚きました。
自分が大きく変わったのは、27歳の時。全旅連青年部への出向が大きなきっかけとなりました。当時、青年部長だった「福一」(群馬県・伊香保温泉)の福田朋英さんにとても可愛がっていただきました。また、組織活性化委員会の担当副部長だった倉沢章さん(別所温泉・上松や)の運転手役として2年間で200日近く行動を共にしていました。
全国各地でさまざまな出会いや貴重な経験をさせてもらうなかで、「自分ほど無知な人間はいないな」と実感し、「井の中の蛙 大海を知らず」とは本当に自分のことだと思い知りました。
――宿の倒産も経験されました。
バブル崩壊後に、売上が落ち込みました。当時、母が設計士に頼んで新館を建てる計画を立てました。図面を持ってメインバンクに行ったのですが、けんもほろろの塩対応でした。
旅館に帰ってきて、銀行からバカにされたことが悔しくて、「自分も2年間、青年部で勉強させてもらった。もう自分が経営を担うから口を出さないでほしい」と母に言いました。料理長とも真剣に話し合い、自分の考えた献立を作る流れに変えました。……
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