2024年6月15日(土) 配信
GWで賑わう5月3日、道南の檜山郡江差町を訪ねた。海に面した表通り「いにしえ街道」では、この日、昔ながらの婚礼の行列が練り歩いていた。花嫁と花婿は、50人ほどの行列を従えて、祝い唄「長持唄」を歌いながら姥神大神宮前の特設会場までを練り歩く。
江差は、かつてニシンと北前船で栄え、「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほど栄えた。人口減少と高齢化で昔とは比べようもないが、今日だけは江戸時代の繁栄が蘇ったかのような賑わいであった。
江差は海岸線に沿った段丘の下側に街並みが形成されている。かつては海に近い表通りに、切妻屋根の建物が立ち並び、各家に飾られた暖簾・看板・壁には、それぞれの屋号が掲げられていた。その一つ旧中村家を訪ねたが、通りから海側に緩やかに下る地形にあわせて、蔵が階段状に連なっている。一番下の蔵には、漁網や海から採ったニシンを加工するための大きな鉄製の釜、魚油を絞る圧搾機などが置かれていた。
このニシン糟は、北前船で備前から関西方面に運ばれ、綿花栽培のための肥料となった。倉敷の「一輪の綿花から」の日本遺産物語や、東洋のマンチェスターと呼ばれた大阪の紡績業の発展を支えたのも、まさにこのニシン糟である。
江差の段丘に上ると、カモメが羽を広げた形をしたかもめ島が臨める。その島の手前には、瓶を逆さにしたような特徴的な「瓶子岩」がある。
この岩には、江差町のニシン漁に関わる言い伝えが残されている。今から500年も昔、1人の老婆がいた。あるとき、婆は翁から小さな瓶を渡され、これを海に投げると、海にニシンの群れ(群来)が現れたとか。この瓶が石と化して瓶子岩になり、婆は折戸さまと崇められ、現在の姥神神社の境内に折戸社として祀られている。
こうして江差はニシン漁と北前船交易で繁栄したが、その繁栄を、江戸後期に古川古松軒が「東遊雑記」で紹介し、「江差の五月は江戸にもない」と謳われるようになった。
江差と言えば、もう一つ開陽丸にも触れておかなければいけない。榎本武揚率いる幕府海軍のオランダ製軍艦である。旧幕府軍は函館・五稜郭を占領すると、松前城を奪取、開陽丸も江差に進軍したが、天候が急変、強い風浪により座礁、そのまま沈没した。
開陽丸は1873(明治6)年、大砲や弾丸、錨などが引き揚げられたが、1974年以降、文献から沈没位置を推定、潜水調査によって本格的な引上げが行われた。3万3千点にも及ぶ遺留品が発見され、日本の海中考古学の先駆けとなった。オランダに保管されていた設計図をもとに、開陽丸の復元プロジェクトも行われ、復元軍艦内に引揚げ品を配置して「開陽丸青少年センター」として公開されている。
いにしえの夢を彷彿させる江差、是非、訪ねてほしい。
(観光未来プランナー 丁野 朗)