2024年12月6日(金) 配信
10月1日に三尾博氏が闘病の末、帰らぬ人となった。三尾氏は長きにわたって日本航空に勤務し、営業の最前線で名采配を振った。名古屋支店課長、大阪支店次長、札幌支店部長、北九州支店長、JALセールス執行役員を経て退職したので、日本航空本体での重役経験はないが、営業部門では知る人ぞ知る存在だった。
私は新卒入社2年目の1995年1月から名古屋支店で直属の部下として薫陶を受けた。前任の東京支店で名古屋支店行きの辞令を受けたとき、当時の課長は「お前を日本航空で一番の営業マンの下につける。かなり厳しいが、三尾の持つすべてを学んで来い」と言って私を送り出した。三尾課長のもとでの3年3カ月、私は三尾課長から人生で最も影響を受けた。常に厳しく、時に楽しくあたたかく、セールスマンとしてだけでなく人間としての真っ当な生きる道を示してくださったのが、ほかでもない三尾課長だ。三尾課長の存在がなければ、今の私はない。
日本の航空業界、旅行業界にとって90年代は時代の大転換期であった。そのとき三尾課長の下で営業の最前線に立ち、航空業と旅行業の時代の潮目にいた私は、これからは仁義なきグローバル競争がさらに激化する中で、このままでは日本の航空会社は運輸省(当時)によって潰されてしまうと直感し、第一志望で入社した日本航空を辞め、政治家の道を志した。
ここで、改めて三尾氏の功績を振り返りたい。当時の出来事は、運輸白書や新聞報道を検索すれば情報収集することは可能ではあるが、これはすべて霞が関からの視角である。とくに地方の最前線にいると、これらの記述にどうも違和感を抱くことが多い。そのため、名古屋からの視角を書き残すことで、最前線では何が起こっていたかを後世の人々に伝えておきたい。
現在放映されている「光る君へ」の時代考証も、ロバート秋山扮する藤原実資が当時の出来事を詳細にわたって記述した日記「小右記」を残してくれたから現在でも当時の生活がわかる。先日、旅行業の旅行産業経営塾で講義をした際、旅行業界がこれまでたどってきた過去の経緯を若い社員はあまり知らないということが分かった。過去どのような歴史をたどって現在に至ったのか、それを知らなければ、未来予想は不確かなものになる。その意味でも、実際に現場で起こったことを書き留めておくことには大きな意義がある。
その当時は課だけでなく支店で一番の年少者だった私も、いつしか課長の年齢を超え、部長や支店長と同じ年代になった。当時の常識は現在では非常識となってしまったことも多々見受けられるが、いま私が書かなければ、これは永遠に埋もれてしまうから、実際に名古屋で何が起こっていたのかを克明に書き記しておこうと思う。
島川 崇 氏
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。