【精神性の高い旅~巡礼・あなただけの心の旅〈道〉100選】-その11-青岸渡寺&補陀洛山寺 和歌山・熊野を歩く(和歌山県・那智勝浦町)海の浄土と山の浄土を巡る 滅罪行と黄泉がえりの熊野詣
2022年3月6日(日) 配信
熊野は、樹々が鬱蒼とする森に、自然崇拝というものが広く根付いています。俗世間と遠くかけ離れた、別世界の旅ができる聖地。熊野の「クマ」とは、「神」「隈」を表し、「神々のいらっしゃる奥まった地」という意味であり、人々が簡単には近づくことができない秘境の聖地でした。私自身、以前、和歌山大学で講師をしていたとき、この独特な熊野の深い森の世界に魅了され、実際に足を踏み入れた際には、目に見えない何かに吸い込まれるようで、恍惚とした幸福感を味わった経験がありました。
また、熊野とは紀伊半島南部(和歌山県南部と三重県南部)の総称であり、熊野三山はそこに鎮座している3つの聖地のことです。その3つとは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社。2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録。
平安時代には、皇族や貴族が都から熊野を目指す「熊野御幸」が盛んに行われました。民衆の間にも広まり、「蟻の熊野詣」といわれるほど、参拝する人々であふれました。「熊野に詣でる」ということは、黄泉の国に往き、生まれ変わって現世へ戻る、再生するための方法なのです。
熊野も四国遍路もそうですが、険しい巡礼道へ行くことは、あらゆる罪を浄化する「滅罪行」でした。滅罪行には2つあり、1つ目は故人に代わって罪を消滅し、後生安楽ならしめようという代受苦の苦行。また、2つ目は自分自身がおかした罪に対し、来世で受ける苦しみを生前に果たしておこうという滅罪の苦行です。
さて、先に述べました熊野御幸ですが、白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回と、なぜこんなにも多くの貴族たちが都から遠い熊野まで詣でるのでしょうか? 熊野の神様は、現在と未来の幸福を授けてくれるそうです。熊野三山の那智の神様は、長寿を授けるご利益を与え、上皇たちの権力の絶頂を極めた人たちは、何よりも健康を重んじたのかもしれません。さまざまな願いを成就するために、神々の力が宿る熊野の霊験さを強く求めたのでしょう。
ちなみに花山上皇は、陰謀によって帝位を追われて、人生を見つめ直すためなのか、約1年あるいは3年の間、熊野で修行し、こもられたとのこと。熊野には、深い思考力を養うための「こもる」という行動のために、最適な聖地なのかもしれません。
その花山上皇が始めたという西国三十三所の第一番が、天台宗の青岸渡寺。熊野那智大社の隣にあり、那智の滝も境内から見渡すことができます。平安時代から、熊野三山を巡拝することにより、死後、浄土に行くことができるといわれています。古くから日本人の死生観に「人は死んだら、お山へ帰る」といわれ、熊野はまさに山の浄土。
ご本尊は、秘仏の如意輪観音様。右手を頬に触れ、思索にふけるお姿が、真摯に人の悩みに寄り添って、「どうしたらよいのか」と深く考えているところに、胸が打たれるのです。
那智山のある青岸渡寺を降りて海際にあるのが、青岸渡寺の末寺である補陀洛山寺。補陀洛山寺は、ここから観音菩薩の住む南の補陀落浄土へ行く舟の出発地でした。平安時代、民衆の人々の罪や穢れを上人たちが一心に受け止めて、死への舟旅に出たのです。一定の儀式の後に舟に乗り、その扉を釘づけにし、出られないようにしました。これは、仏教でいう我が身を捨てて人のために尽くすという「捨身行」。
熊野の補陀落渡海は、江戸時代まで続きました。民衆の浄土への強い願望を感じます。ここは、海の浄土の出発地。海という字の中には「母」という字が入っています。海というのは、母親のような包容力に満ちた安らかな境地になれる場所ではないでしょうか。
■旅人・執筆 石井 亜由美
東洋大学国際観光学部講師、カラーセラピスト。精神性の高い観光研究部会メンバー。グリーフセラピー(悲しみのケア)や巡礼、色彩心理学などを研究。