「観光人文学への遡航(24)」 利他性のジレンマ 福祉から宗教へ②
2022年7月2日(土) 配信
相互信頼関係でよく出てくる「利他性」というキーワードこそが、人を苦しめている原因になっているのではないかとの仮説のもと、福祉と宗教にその解を求めて考究を深めている。
なぜそもそも人は利他的な行動をとるのか。そこには、純粋にその相手が喜んでくれてそれで終わりではなく、その自分の行為によって、相手から「感謝してもらいたい」「自分を評価してもらいたい」といった期待が後ろに控えていることが少なくない。
現代社会は、激烈な競争下にさらされている。子供のときから、勉学で身を立てようとしても、またはスポーツや芸術で身を立てようとしても、競争を勝ち抜いていかなければならない。
競争に勝った人間は、競争に負けた人間を見下し、自分の軍門に下るように振る舞う。しかし、競争に勝ったと思ったのも束の間、また新たなステージで競争が始まり、そこで勝ち抜いていかなければ、人から見下される立場へと転落してしまう。
常に競争に勝たないといけないという強迫観念にさいなまれ、不安と隣り合わせにいる。だから、現代社会に生きる人間はひとときも気が休まる瞬間がない。
相手から「感謝してもらいたい」「自分を評価してもらいたい」という気持ちから生まれる行動は、結局、自分の不安を除去するための目的でしかない。
神道では、天つ神の「清らかな心」と一体となることを説く。天皇陛下も三種の神器を持つことで、天上界から降臨してきたその当時の神々の想いと一体となり、常に国民とともにあり、国民の平和と安寧を祈る。私たち国民も天皇陛下とともにあり、そして、ひいては天つ神とともにある。
さらに、神道は「一貫のいのち」ということを伝えている。すなわち、清らかな天つ神と自分が一体となって1つのいのちでつながっている。そうだとすれば、他人から評価してもらいたいとか認められたいなんて考えは、まったく必要ないことに気づく。その境地に至れば、相手を喜ばせたいとか、相手に感動を与えたいと考えるよりも、相手とも一体だから、もっと淡々としたものになるはずである。自分の心の中の芯の部分には天つ神と同じく異心のない清らかな心があるのだから、それを引き出すために、異心を祓って祓っていくのである。
自分の中にも既に天つ神が存在すると考えれば、不安などどこかに吹き飛んでいく。
結局、利他という言葉は、利がどちらにあるかということを考えている時点でもう利己的である。利他はアピールがつきものである。神と自分が一体関係であれば、アピールさえもする必要はない。
人知れず正しい道を歩み、認められずとも淡々と生きていくことをよしとできなければ、まだ利己の心が残っている。
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。