「観光人文学への遡航(25)」 空海の求道の旅①
2022年7月24日(日) 配信
既存のホスピタリティ論の限界、即ち、口では利他をアピールしながらも、突き詰めてみたら結局自分の利益を求めているという自己矛盾を、福祉と宗教から越えようと試みている。
これまで神道を通して「一体関係」という関係性を見出してきた。今月からは仏教の考え方を紐解いてみることとする。なお、その際のテキストとして、竹村牧男「空海の哲学」「『秘蔵宝鑰』を読む」「空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む」を参考にしている。
我が国において、仏教は聖徳太子によって本格的に導入された。その後、奈良時代には南都六宗といわれる仏教各宗派が誕生した。しかし、奈良時代の仏教は学問研究に軸足を置いていたことから、その教えを請おうとする政治の中枢と仏教僧との癒着が進んでいった。
それを排除するため、平安京に遷都した桓武天皇は、平安時代という新たな時代にふさわしい今日的な仏教を導入することを模索した。そこで、朝廷は南都六宗とは一線を画し、比叡山を開山していた最澄を重用し、弟子を派遣するのではなく、最澄自身が唐に入り、最新の仏教を学んでくるように指示した。
もう既に名声が轟いていた最澄が乗る遣唐使船団の別の船に、まだ無名の若き学僧空海の姿もあった。その当時空海は僧という位置づけだけでなく、中国語の素養、医薬の素養も認められており、20年という長期の滞在ということでメンバーとして認められた。
2人の搭乗する804年の遣唐使船団は航海の途中で悪天候に見舞われた。計4艘が唐へ向かったのだが、最澄の乗る船は予定していた明州の港に到着、空海の船は予定の港と異なる福州に辿り着いてしまう。ちなみにその他の2艘は行方知らずとなった。
福州の役人は、空海の乗った船を海賊だとみなした。嫌疑がなかなか晴れず、埒が明かないなか、遣唐使の正式な大使に代わって、空海が福州の長官に嘆願書を書くことになった。その嘆願書の理路整然とした文体と文字の達筆ぶりに唐の役人も感嘆し、50日にわたる拘束を解いてもらうことができた。空海はその年の暮れ、晴れて唐の首都長安へ入った。
空海は、その当時長安で名僧と名高い青龍寺の恵果阿闍梨と対面する機会を得た。恵果阿闍梨は会った瞬間に空海が厳しい修行を積んでここまで来たことを見抜き、彼の知る一切の奥義を空海に伝授することにした。そして空海は「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛の灌頂名を与えられた。
生涯の師との出会いから半年後、恵果阿闍梨は入寂する。空海は弟子たちを代表して恵果阿闍梨の業績を顕彰する碑文を起草した。
空海はわずか半年間で恵果阿闍梨から密教の奥義を余すところなく継承したのである。
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。