「鉄道開業150周年を契機に~寄稿シリーズ⑤」 大杉要氏「沿線自治体の『意志』で存続する『くりでん』」
2022年8月6日(土) 配信
今年は新橋―横浜間の鉄道開業から150年という節目の年である。私が管理しているのはかつて宮城県北部の栗原郡を走っていたくりはら田園鉄道(通称・くりでん、2007年に廃線)という鉄道会社の遺産だが、このくりでんが開業したのは日本初の鉄道開業から約半世紀後の1921(大正10)年だった。
くりでんの発起人でもあった初代社長の中村小治郎は、沿線の岩ケ崎(栗駒)生まれで、1913年に同町の町長となった。東北本線から離れている岩ケ崎が発展に取り残されることを憂慮した中村は、石越駅と岩ケ崎を結ぶ鉄道の建設運動を始め、その尽力の末に誕生したのがくりでんだった。最初は石越―岩ケ崎間のみの営業で、細倉鉱山までつながったのは戦時下の1942年だった。
勘違いされやすい点だが、細倉鉱山の貨物輸送はくりでんの主な収益源ではあったものの設立目的ではなく、くりでんに期待されていたのは沿線町村の発展への寄与であり、沿線住民の足としての活躍だった。
戦後は旅客・貨物ともに活躍し最盛期を迎えたが、自家用車の普及や道路整備によるトラック輸送の拡大が進むと、客貨ともに利用が減少、赤字経営と転落した。さらに細倉鉱山の閉山が大きな痛手となり廃線も濃厚となったが、くりでんの存続を望む沿線自治体の声もあって第三セクター化し、ディーゼル車の導入など再建がはかられた。
だが、経営は好転せず、今から15年前の2007年3月31日に約90年の歴史に幕を閉じることとなった。
くりでんを惜しむ声は廃線が決まったあとも多く、くりでん資料の保存・活用について有識者を招いて議論が交わされ、「鉄道公園」として残すことが決められた。廃線となった07年中にはくりでんに関する一連の資料が近代化産業遺産に認定もされている。本社のあった若柳を中心に整備が進められ、現在は「くりはら田園鉄道公園」としてNPO法人Azuma-reが市から委託管理をしている。整備には膨大な費用がかかることからも、沿線自治体のくりでんを後世に残すという強い意思が、いまのかたちでくりでんを「存続」させたと言える。
公園内にあるくりでんミュージアムでは、会社が残した膨大な量の資料を保存・展示しているほか、現役当時に使われていた機関車庫・客車庫も見学できる。なかには細倉鉱山から購入した機械もあり、くりでんと細倉鉱山の関係を見ることができる。
また、道路を挟んだ向かいの旧若柳駅舎では、週末に乗車体験や運転体験、レールバイク乗車会を開催し、県内外からの多くの来場者でにぎわっている。駅舎で動態保存されている車両は目玉の1つだが、ほかにも待合室には現役当時使われていた古い広告の載ったベンチなど、かつての沿線のようすがうかがえるものもある。
鉄道とその沿線地域は相互に影響を与えながら現在の街並みをつくっている。くりでん公園に来た際には、くりでんを後世に残そうとした沿線地域のことも知っていただければと思う。