「観光人文学への遡航(28)」 空海と最澄②
2022年10月30日(日) 配信
803年に出立した遣唐使船団に最澄と空海は偶然にも搭乗した。最澄は天皇のお墨付きを得て、日本仏教期待の星として派遣され、中国の最新の仏教を学んで805年に帰国する。一方、空海は無名の学問僧で、20年の留学の約束で入唐したが、現地で恵果阿闍梨との運命的な出会いをして、恵果阿闍梨の持つ密教の奥義をわずか半年で会得し、恵果との約束を果たすべく、806年に帰国する。空海はそのときの気持ちを「虚しく往きて、実ちて還る」と表現している。
空海は、往路も大変な航海だったが、復路も大変だったようである。空海の搭乗した船団がいつ九州に到着したのかはわかっていない。そして帰国後の空海の足取りもわかっていない。
空海が上京を許されたのは、809年に嵯峨天皇が新たに即位した後になる。嵯峨天皇は空海の持ち帰った密教と書に関心を持ち、とくに今までの日本に伝わっていた仏教思想とはひと味違う密教の考え方に感銘を受けた。空海が持ち帰った密教の経論は、最澄のそれとは比較にもならなかった。
空海が都に入り、嵯峨天皇が空海の持ち帰った密教の経論を学んでいることを知った最澄は、空海が持つ密教の奥義を学びたいと思うようになる。最澄は弟子を派遣して、空海の持つ書物の借用を願い出た。空海から借用した書物を最澄は比叡山で書き写した。最澄が会得してきた曼荼羅は実は亜流な考え方だったことも分かり、812年に最澄は自ら弟子とともに空海から灌頂を受けることを申し出る。灌頂を受けるということは、正式に師匠、弟子の関係となるということである。その当時すでに都で名声を博していた高僧最澄が、ニューフェイスの空海に弟子入りするということから、空海の名前が一気に注目されることになった。
しかし、最澄はその地位も盤石であったことから、多忙のため、空海の求める修行に参加することはなく、泰範ら弟子たちに任せることにした。そして、その後も書物の借用を申し入れてきたのだが、空海は、本当に密教の奥義を会得したいのであれば、自分のところに来て直接教えを請い、修行をするべきであると借用を断った。最澄はその不義理を詫びているが、空海は譲らなかった。
さらに、最澄と空海の仲を決定的に裂く出来事が起こる。816年最澄は、空海の許で修行をしていた弟子の泰範を比叡山に戻すように要請した。最澄とその弟子たちが空海から灌頂を受けて下山したあとも、泰範だけは空海の許にとどまっていた。最澄は優秀な泰範を自分の後継者として目していただけに、泰範には比叡山に戻ってきてほしかったのである。しかし、空海はそれを拒否する。泰範自身も空海のもとで生きることを選択し、泰範はのちに空海の十大弟子、または四哲と呼ばれるようになった。
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。