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【特集 No.622】ホテル八木(福井県)  “日本一のビュッフェ”目指す

2022年11月10日
編集部:増田 剛

2022年11月10日(木) 配信 

 高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客の強い支持を得て集客している宿の経営者と、工学博士で、サービス産業革新推進機構代表理事の内藤耕氏が、その人気の秘訣を探っていく対談シリーズ「いい旅館にしよう! Ⅲ」の13回目は、福井県・あわら温泉「ホテル八木」社長の八木一夫氏が登場。10年に及ぶ改革を継続し、「日本一のビュッフェ」を目指すホテル八木。“ビュッフェの概念を覆す”新たな試みを、内藤氏とともに探った。

【増田 剛】

 ――ホテル八木の歴史から教えてください。

 八木:元々は一般的な農家でした。この地域の水田灌漑用の井戸を掘っていたときに温泉が出たため、1883(明治16)年10月に創業しました。あわら温泉で最も古い宿の1つで、当時から温泉地の中心街で営業を続けています。私は5代目になります。

 内藤:宿はどのようなかたちでスタートしたのですか。

 八木:農作業の疲れを癒す湯治の小さな湯屋です。景勝地でもなく、平地に湧いた温泉街のため、各宿が競うように庭を造り、温泉地として発展していった歴史があります。
 京都の花街を模した芸妓文化も育っていきました。近隣の勝山市では機織業が盛況で、ガチャンと織れば万の金が儲かると言われた「ガチャマン」景気と重なり、旦那衆が芸妓を囲ってあわら温泉で遊ぶという華やかな時代もありました。
 昭和の高度経済成長期には大型バスで観光客が訪れ、あわら温泉では一部で郊外に大型旅館を建てる流れになりました。

 内藤:中心街に残って外に出なかった理由は何かあったのですか。

 八木:先代(父)や先々代は、「第2の我が家」のような宿を軸にしていたので、団体旅行の全盛時代にあっても、個人客に目が向いていたのだと思います。

 内藤:今にしてみれば時代の先を行っていたとも言えます。どの時期から経営的に厳しくなり始めたのですか。

 八木:私が大学卒業後に宿に入ったのが2003年です。当時は宿の経営が良好だったので、「企業に就職するよりも断然いい」と思っていました。福井県内には大きな温泉地はあわら温泉しかないため、忘・新年会、送歓迎会、総会など年間を通じて宴会需要はありました。
 しかしながら徐々に単価が下降し、需要も減少傾向が続いていました。何とかしなければならないと思いあぐねていた10年ほど前の2012年に、格安温泉旅館チェーンが進出し、10億円ほどあった売上高が毎年1億円ずつ減少していきました。
 ビュッフェではなく部屋食中心で、1人当たりの宿泊単価も2―3万前後だったため、「客層もまったく異なる」と捉えていましたが、どんどんお客様が減っていきました。
 「何かがおかしい」と思いながら理由が分からない状況が続きました。進出してきた旅館チェーンは「安売りモデル」と言われていたため、「低価格」の部分ばかりに目が行っていました。
 さまざまな分析をしてみた結果、当時はまだ温泉は記念日など特別な「ハレ」ニーズでしたが、同チェーンは「温泉を身近にしよう」というコンセプトで、「気軽に温泉旅館に泊まってリラックスしてください」という売りでした。つまり当館が軸にしていた「第2の我が家」と重なり合っていたと、のちに理解しました。

 内藤:そこから改革が始まったのですね。

 八木:とにかく生き残ることを考えたときに、企業の存続条件は「利益を残す」のみでした。どうやって利益を作り、残すかをひたすら考え、損益計算書(PL)のあるべき数字のモデルを作りました。
 「利益を10%残す」と決め、そこから色々なところを細かく見ていくなかで気づいたことは、「自らがコントロールできる部分は少ない」ということでした。
 例えば、…

【全文は、本紙1886号または11月15日(火)以降日経テレコン21でお読みいただけます。】

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