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【精神性の高い旅~巡礼・あなただけの心の旅〈道〉100選】-その20-木曾三社神社(群馬県渋川市) 石段を下った先に別世界 義仲の遺臣たちの想いに触れる

2022年12月6日
編集部

2022年12月6日(火) 配信

 

 前回紹介した渋川八幡宮宮司の小野善一郎さんから近隣にすごい神社があるとご紹介いただいたのが、同じ渋川市にある木曾三社神社である。

 

 木曾とは、ご想像通り木曾義仲のことなのだが、なぜ群馬県渋川市に木曾氏ゆかりの神社が存在するのか不思議に思われることだろう。

 

 

 木曾義仲が近江国粟津で源義経に討たれたのち、その遺臣たちは、木曾の谷に戻って身を隠していた。しかし、源頼朝の詮議が厳しくなってきたので、木曾は安全な隠れ場所ではなくなった。

 

 このとき、木曾一族が篤く信仰していた神社の神官であった高梨南学院という人が、3夜続けて不思議な夢を見たという。それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという御神託だった。

 

 そこで遺臣たちが相談した結果、岡田・沙田・阿礼の3神社の御神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つこととなった。もともと木曾義仲は現在の埼玉県比企郡嵐山町あたりの生まれと言われているので、その地まで向かおうとしたのではなかろうかと推測されている。

 

 今井氏、高梨氏、根井氏、楯氏、町田氏、小野沢氏、萩原氏、望月氏、串渕氏、諸田氏といった遺臣たちは、碓氷峠を越えて利根川の辺までたどり着いたとき、ある平和な村を見つけた。そこに神をまつろうとすると、土地の人が怪しんで「その箱は何か」と尋ねると「ただの箱だ」と答えた。そのことから、その地は箱田という地名が付いた。

 

 神の御告はさらに今一度ここを立ち去るようにと下ったので、また人々は旅に出た。半日歩くと、利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。ここで一行は御神体の箱を石の上に降ろして休憩した。またここでもこの箱はなにか問われたが、ここでも、「ただの箱だ」と答えた。再び出掛けようとすると箱は石に固くくっついて動かなくなってしまった。

 

 これは何か意味があると考えて、その場所に御神体をお祀りしたのが、この木曾三社神社となった。ちなみに、この木曾三社神社の住所を見ると下箱田1番地となっていて、ここも箱田という地名が付いている。平安末期の伝説が現在の地名にも残っているのが興味深い。

 

 木曾三社神社の宮司さんは今井さんと言い、もちろんこの遺臣の今井氏の末裔である。近くに一本松根井家という食堂があるのだが、ここは、ともにこの地までやってきた遺臣根井氏の末裔が経営しているとのことである。1千年近い歴史がこうやって地元にしっかりと根差していることに驚きを感じる。

木曾三社神社は本殿まで石段を下っていく

 

 一般的な神社は、本殿は高いところにあり、参道はそこに向かって上っていくことが多いが、この木曾三社神社は本殿まで石段を下っていく。石段を下ったその先には、本殿、拝殿とともに、湧玉と銘打たれた湧水地や清水が美しい滝をなしている旭の滝があり、その清らかな水が小川をなし、湿地帯をなして、そこには漢方薬に使用されるセキショウの群生が見られる。なるほど、ここだけ別世界に紛れ込んできたような印象だ。

 

清らかな水が小川をなし、別世界のよう

 

 ここの水は清らかでやわらかい。ここだけ標高が低くなっている不思議な地形をしているその土地に、そこかしこと清らかな水が流れ、池をのぞいてみると細かい砂を巻き上げながら清水が湧いているようすを静かにじっと見ていると、身も心も祓われる思いだ。拝殿の前面には大きくしっかりとした字体で、「瀧之宮」の額が掲げられているのも頷ける。

 

 幕末から明治の官僚及び政治家の黒田清綱がこの地を訪ねて詠んだ歌が残されている。

 

 みやしろのみかきのうちにわく水の清きや神のこころなるらん

 

旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授。2019年「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。

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