「観光人文学への遡航(32)」 秘密曼荼羅十住心論④空の本質
2023年2月23日(木) 配信
いよいよ第七住心に入る。第七住心は「覚心不生心」。一切は空しいものであり、実体などはないとすべてを否定する心である。第六住心では世の中は差別がないことを目指すべきではあるが、その境地に至るには気の遠くなるような修行の時間が必要であると説いている。しかし、第七住心は、そもそも差別も何もなく、一切は空であるという立場である。
この空の考えこそが、大乗仏教が小乗仏教と大きく異なる点である。この考えをまとめたのが、インドの僧、龍樹である。龍樹は、空の概念を般若経から引き出して、思想として体系化した。般若経の中でも代表的なものは、現在の日本でも大変ポピュラーな般若心経である。般若心経は般若経の中でも最も短い経典であり、262文字にその思想が凝縮されている。般若心経を読むと空の境地が見えてくる。
空とは、なにもないという意味で、世界で最も古くから0(ゼロ)の概念を持っていたのがインド人であったこととも関係が深い。世の中はすべて空であるからこそ、所有欲も当然なくなるし、したがって区別も差別も当然ない。金も地位もすべて実体はないのだから、うらやむことも、ねたむこともない。
第五住心で因縁というキーワードが出てきた。苦しみはその原因があるから引き起こされるという考え方だ。輪廻転生も原因があるから結果があるということなので、因縁そのものだ。しかし、第七住心は、その因縁さえも実体がないと断言する。
般若心経の中に不が連発する有名なフレーズがある。不生不滅、不垢不浄、不増不減。すなわち、新たに生まれたり滅したりするものはなく、きれいも汚いもなく、増えもしないし減りもしない。すべてエネルギー保存の法則のように、原子の配列状態が変わっているだけで、何ら変化はしていないと解釈できるのではなかろうか。
死というものも、ものが壊れるということも、実際には原子の配列が変わっただけで、なくなってはいない。それを考えると、なにかに執着するということがいかに空しいことかが分かってくる。
般若心経では、色即是空という言葉で空について読み解いている。色とは、宇宙に存在するすべての物質のことである。すなわち、すべての物質は、実体のないものであるということである。そして、色即是空のあとに、空即是色とも書かれている。すなわち、実体のないものがこの世の中のものやあらゆる現象を形成しているということでもある。
第七住心は、一切を否定しつくして至る世界に到達することを言っているようだが、実際は、一切を否定しつくした世界こそがこの現象世界なのであり、その意味では、色即是空と空即是色はセットにして心にとどめておくのがいい。
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。