test

【ビッグホリデー創業50周年記念対談】岩崎安利社長×石井貞徳社長(旅行新聞新社)

ビッグホリデー 岩崎 安利  社長
ビッグホリデー
岩崎 安利 社長

「常に前向き」の姿勢で飛躍

 1964年に「北日本ツーリスト・ビューロー」として創業した「ビッグホリデー」(岩崎安利社長)は2014年4月に、創業50周年を迎えた。岩崎社長の持ち前の行動力で旅行需要の変化に柔軟に対応し、獲得が困難とされた会社の代理店契約をはじめ、これまでに数々の変革に取り組んできた。今回は岩崎社長と本紙の石井貞德社長が対談形式で、岩崎社長がビッグホリデーと共に歩んできた50年とこれからのビッグホリデーの飛躍について語り合った。

各グループを大きな「森」へ ―― 岩崎

常識に捉われず挑戦続ける ―― 石井

旅行新聞新社 石井 貞徳  社長
旅行新聞新社 石井 貞徳 社長

■石井:創業50周年おめでとうございます。まずは、会社と歩んできた50年について教えてください。

■岩崎:1964年の「北日本ツーリスト・ビューロー」の創業から、ふと気付いたら50年が過ぎていた、というのが正直な感想です。珍しいことかもしれないですが、当社は「東京ブルー観光」「ビッグホリデー」と社名を変えてきました。時代の流れに合わせて社名を変更しており、現在でいうコーポレートアイデンティティーのような感覚です。
 「北日本ツーリスト・ビューロー」の時代は「レクリエーション」、つまり余暇活動が注目された時期でした。それまで遊びが少なかった冬にスキーやスケートが新たなレクリエーションとして脚光を浴び、とくに若者の間で流行ってきたころです。そのときに、「これからはレクリエーションの観光ブームが到来する」と感じ、スキーバスや慰安旅行を主に扱うようになりました。
 メインで取り扱っていたスキー旅行はシーズンが年間約100日しかなかったので、四季を通した旅行需要についても考える必要がでてきました。そこでバス観光に注目し、69年にブルーバス(現・千葉中央バス)と販売連携したのです。社名もバス会社の知名度を利用して「東京ブルー観光」に変更し、スキーバスだけでなく関東中心の観光バスツアーを扱う会社にしました。この時期に大阪万博も開催され、大きなバス需要を生みました。これは我われの商品を取り扱ってくれる私鉄が一気に増え、販売網が確立した時期でもあります。
 やがて飛行機旅行や家族旅行が中心の時代になると、「このままバス旅行だけで旅行会社を経営していてもよいのか」と疑問を抱くようになりました。当時の国鉄は大手旅行会社の独壇場で敷居が高かったので、飛行機に目を向けました。全日本空輸(ANA)からなんとか指定代理店契約の許可を得ることができ、本格的な国内のツアーを扱うようになりました。同時に商品のイメージに合うように「ビッグホリデー」とブランド名を付け、それがそのまま社名となり、現在につながっているのです。

■石井:まさに「先見の明」で、観光の流れを見てきたのですね。そのような目まぐるしい変化のなかで、苦労話などございましたら教えてください。

■岩崎:大変な時期はありましたが、それを苦労と考えたことはありません。パンフレットを置いてもらうことすら難しかった営業時代を私自身が経験しており、一つひとつの苦労を考えていると仕事に手がつかないので、常に前向きに挑戦を続けてきました。
 たとえば私の営業時代は、自分の会社よりも大きな旅行会社にパンフレットを置いてもらうことは常識では考えられないことでした。しかしそこで私は、「大手だから無理だろう」とは思いません。「大手だからパンフレットを置けば商品が売れる」と考えて大手旅行会社に飛び込んだのです。実際に営業してみると、案外許可が取れるもので、それでツアーが売れたこともありました。この前向きな姿勢が、苦労を苦労と感じさせず、むしろ自分の才能に変えてくれたのではないかと思っています。

■石井:常識に捉われずに挑戦を続けていく姿勢が、これまでのお話にあった社名の変更や新ジャンルへの挑戦につながっていますね。一方で、そんなに前向きに考えていても「大変な時期」があったのでしょうか。

■岩崎:77年にANAとの代理店販売契約を結んだときのことですね。その当時は東京ブルー観光時代で、会社は板橋区の常盤台にありました。「代理店は池袋にあればいい」という理由で、当時新宿の京王プラザホテルにあったANAの新宿営業所の所長に契約を断られ、「それだけの理由で販売代理店になれないとはいかがなものだろう」とつい感情的になって「航空会社はほかにもある」と啖呵を切ってしまいました。我われのツアー商品を取り扱ってもらっていた京王観光の先輩社員にそのことを話すと「都内にバス会社は40数社あるかもしれないが、航空会社は全国に3社しかない。3回喧嘩したら終わりだよ」と返されました。そう言われると、妙に納得してしまって、その先輩社員と一緒に謝りに行きました。所長には「1人で来られなくなったら、2人で来るようになったか」とからかわれ、お互いに笑い合ったのを覚えています。それから一気に心の距離が縮み、代理店契約を結ぶことができたのです。
 代理店になったあとも大変でした。常盤台でスキーバスをやっているような小さな旅行会社では大手旅行会社の販売力に敵うはずがなかったのです。そこで全国旅行業協会(ANTA)の東京支部を説得し、協力してANAとの販売契約を結ぶことを決めました。その当時は、飛行機に乗ることが一般化されていなかったので、ANTAの仲間も航空券を商材として考えていなかった時代です。私自身、当時はANA以外の航空会社のことを知っていたわけではなく、むしろ八丈島にも日本航空が飛んでいると思っていたくらいです。京王観光の先輩社員には「お前の会社は国内だろう。日本航空は八丈島どころか四国も飛んでいないよ」と言われました。 
 とにかく、そんな我われが大同団結し、販売契約を結ぶために存在意義をアピールする必要があったのです。そのために、毎月の売上を旅行会社別に出し、ANAに提出しました。協力社数も50社が100社、200社と増え、さすがにANA側も「旅行業界の人が集まれば大きいものになる」と理解してくださる方々が現れたのです。「航空券の再委託は定款に無い」と言われ続けてきましたが、結果として航空券とANAスカイホリデーの販売協定が結ばれただけでなく、全日空パートナーズショップ(エアグループ)という全日空代理店の契約ができる仕組みを形成することができたことには、感慨深いものがあります。
 コンピューターが出始めのころにも、コンビニエンスストアで旅行商品やチケット販売を始めるにあたり、いまだかつてないことで制度化されていなかったので当時の運輸省と一悶着ありました。新しいことを始めるには常に壁が立ちふさがったものでした。

■石井:会社が前に進むためには新しいことへの挑戦が続いたわけですね。では、岩崎社長が驀進(ばくしん)することになった旅行業ですが、50年前に旅行業と出会ったきっかけはなんだったのでしょうか。

■岩崎:実は旅行会社を立ち上げることになるとはまったく思っていませんでした。中学校卒業後に職工として働きはじめ、幼少期から好きだった柔道に打ち込んでいたので、そのうち警察に入り、柔道の指導員になろうと考えていました。通っていた道場の先生がちょうど指導員で、「高校さえ卒業すれば面倒を見る」と言っていただいたので、定時制の高校に通い始めました。しかし体調を崩して医者にかかった際に、若年性の高血圧であることを指摘されました。激しい運動を続ければ早死にすると注意され、柔道の道は断念するしかなかったのです。
 その後、定時制高校に通いながらでもできる仕事を探していたときに、たまたま新聞で見つけたのが、完全歩合制で勤務時間に余裕がある「東光観光」で、これが旅行業との出会いです。その当時、旅行会社は日本交通公社しかないと思っていたほど旅行会社のことを知らず、「東光観光」もバス会社の部類だと思っていました。
 会社に入ってからは、先輩社員が勤務時間にも関わらず、喫茶店と映画館に繰り返し入り浸る姿を見てうんざりしていました。「このままでは自分もダメになる」と思い、一生懸命に飛び込み営業をして過ごしたことは今でも身に沁みついており、パンフレット配りは今でも当社社員に負けないつもりです。そういった努力が功を奏したのか、あるときスキー旅行を獲得し成功を収めると、仕事に自信がついてきました。そして高校卒業と同時に独立し、64年4月に北日本ツーリスト・ビューローを創業したのです。東光観光入社からわずか2年で20歳の時でした。これがビッグホリデーの始まりです。

■石井:たまたま入った旅行会社が運命の相手だったというわけでなく、努力を重ねて自分のものにした、ということですね。それでは現在に話を戻して、取り組んでいる事業について教えてください。

■岩崎:純粋な観光旅行だけではなく、いろいろなニーズを旅行に結び付けようと、さまざまな取り組みをしています。たとえば、日本の小学校教育に英語が取り入れられてから、先生方から英語ができないとの声を聞くことが増えました。そこでマレーシアの大学と連携し、2014年度の夏から静岡県浜松市の教育委員会と、英語研修をマレーシアで開きました。英語研修をするだけでなく、マレーシアの教育現場を知る機会にもなり、参加者からご好評をいただいております。

■石井:では、これまでの50年で培ってきた経験を、今後はどのように活かしていきますか。

■岩崎:まずは、ウェブ事業を拡大していきます。これは次の50年につながる橋頭堡になると思っています。そのために、今後3年ほどをかけて、ウェブ単体で1つの柱として成り立つよう、足場を固めていきます。
 また、現在活気づいているインバウンドについても取り組んでいきます。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、「インバウンドにも大きな比重を置いた国内旅行会社」に進化させていきたいですね。もともと国内旅行に強い会社なので、インバウンド用の国内旅行を催行することは難しいことではありません。最近はインバウンドの取り扱いも熟知してきたので、あとは勘をつかむだけだと思っています。

■石井:これまでは時代の流れに合わせて会社の体制を変えてこられたわけですが、今後はグループの体制について変革などを計画しているのでしょうか。

■岩崎:グループ会社のメリットをもう一度考えていきます。私は常に「木から森へ」を理想としてグループ全体に提唱しています。グループ会社一つひとつは1本の木ですが、集まれば大きな森になります。当グループには十分に一本立ちできる会社もあるので、お互いのノウハウを分かち合える仕組みを作り、グループ会社同士でコラボレーションしやすい環境を整えていきます。
 また、これから先は、「何%売上が伸びたか」という数値目標ではなく、売り上げた中身に注目していきます。「売上数値だけを上げ、社員数を多く抱えればよい」という時代ではなくなっているので、利益面を一層追求します。そのための効率も重視し、人材への投資や部署の改革を進めます。

■石井:東京オリンピックも近くなりました。そこでビッグホリデー流の日本の観光地を元気にするヒントなどがありましたら教えてください。

■岩崎:温泉や旅館など「日本のリゾート」を外国人観光客に受け入れられるように変革させることがひとつの手段だと思います。日本人が温泉地に行かなくなり、シティホテルのシェアが増えている現状もあり、そうなると国内での誘客努力も必要ですが、外国人観光客を呼び込むという選択肢も出てきます。
 最近では英語対応だけでなく、ハラルの対応など高いハードルも目立っていますが、これらの海外における基本的な生活や文化に対応できないと外国人観光客からはまず受け入れられないと思います。
 日本人だけ扱っていても何も変わらないし、いざ外国人観光客を受け入れるときにトラブルにつながる可能性もあります。施設であるならば、お客様がご到着してからお帰りになるまでのフローチャートを改めてインバウンドの存在を視野に入れて考えるのです。日本人の行動と外国人の行動は違うのでそこを意識しながらお客様の流れを考えると良いヒントが生まれ、何か新たにできることが増えるのではないかと思います。

■石井:ありがとうございます。それでは最後に、本紙の読者である観光業界の仲間に、50周年を迎えられた秘訣と今後の意気込みを伝えてください。

岩崎:50年を振り返れば良いことも悪いこともありました。そもそも旅行業は自然や病気、戦争などいろいろな状況に対して、向かい風になることが多く、それが追い風に働くことはまずありません。だからこそ、何か起きた時にはそういう業種だと思ってきました。だからこそ、一つひとつの事項に対して常に前向きに考えてきました。少しでも辛いと思うと全部が辛くなります。そうならないためにも、自分自身が元気を作っていくことが大事なのです。これからも、常に前向きに進める元気を持って、ご支援いただいている皆様と歩んでいきたいと思っています。

対談は14年12月9日、東京都文京区の ビッグホリデー社長室で行われた
対談は14年12月9日、東京都文京区の
ビッグホリデー社長室で行われた

 社長室には、岩崎社長の原点を表す「企業価値」と題された訓示が掲げられている。「1・企業価値は、社員のスキルの高さで決まる。2・企業価値は、良い商品をより安く、そして収益を上げられる知恵を全社員が共有出来るかで決まる。3・企業価値は生き物、社員の意識で成長も衰退も決まる。」

いいね・フォローして最新記事をチェック

PAGE
TOP

旅行新聞ホームページ掲載の記事・写真などのコンテンツ、出版物等の著作物の無断転載を禁じます。