「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(225)」選ばれる地域には「物語」がある(北海道小樽市)
2023年11月4日(土) 配信
選ばれる地域、行ってみたい地域は、どこも素敵な物語がある。
その一つ、小樽にはこれまで何度も訪れているが、小樽を象徴する景観は何といっても運河である。その小樽運河は、1923(大正12)年に建設されたが、小樽の発展は、江戸期後半から始まるニシン漁が原点である。そのニシンや資材を貯蔵するため、明治20年代には、旧北浜地区や現在の北運河界隈に数多くの石造倉庫群が生まれた。観光客が多く訪れる旧小樽倉庫(小樽市総合博物館運河館)も、この時代のものである。
この少し前、1880(明治13)年に建設された手宮線(官営幌内鉄道)は、小樽の大きな転機となった。空知の豊富な石炭の積出港として、日本で3番目に古い鉄道である。鉄道は石炭だけでなく、北海道開拓使が置かれた札幌に多くの物資を運んだ。この鉄道の開通により、小樽は明治22年に特別輸出港、そして明治32年には国際貿易港として急成長を遂げる。
しかし、貨物量が増大すると、それまでの「はしけ」による荷揚げは限界となり、大正12年、小樽運河が建設されることになった。運河は、海岸の沖合を埋め立てて、緩やかなカーブを描いて建設された。これが、今日の運河の固有景観につながっている。
しかし、時代は下り、戦後になるとトラック輸送の増大から、小樽運河の役割は終焉する。無用の運河は放置され、ごみが投げ込まれるなど邪魔者となった。そんなときに浮上したのが運河を埋め立て6車線の道道小樽臨港線を通す都市計画決定である。昭和41年、まさに高度成長期である。
しかし、これには多くの小樽市民が反対した。昭和48年に発足した「小樽運河を守る会」を中心に反対運動が激化、以来、10年にわたり市を二分する運河埋め立て反対闘争が勃発する。結局、運河は南側の半分を埋め立てる折衷案として決着した。その後は、条例による徹底した景観整備と新たな景観創出の取り組みが始まった、これが、今日の美しい運河景観につながっている。
運河論争の渦中、元通産省事務次官の佐橋滋は、運河を大切な「歴史的投資」と呼び埋め立てに反対した。「投資とは、現在の消費を抑え、後日に喜びや恩恵を与えてくれる。それは長い歳月や歴史だけが創りだせる投資で、後々まで人々に精神的喜びや感動を与えてくれるのだ」と呼び掛けた。
多くの観光客が集まる南運河の北側に、運河建設時と変わらぬ40㍍幅の北運河がある。小樽発展の礎となった手宮機関庫(鉄道記念館)や旧日本郵船小樽支店など、今でも最も小樽らしい景観が残っている。
小樽は年間800万人が訪れる日本を代表する観光地となっている。あのとき運河を埋め立てていたら今日の姿や繁栄はない。
多くの地域で歴史的文化資源が危機に瀕している。しかし、その資源は地域の人々の想いとともに、未来への贈り物なのである。
(日本観光振興協会総合研究所顧問 丁野 朗)