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「提言!これからの日本観光」 「食堂車」

2023年11月5日(日) 配信

 「食堂車」は1899(明治32)年に山陽鉄道会社が欧州鉄道に範をとって連結を始め、2年後に旧国鉄も「食堂車」を長距離列車に連結し始め、100年余りの歴史をもつ。発足時の「食堂車」はもっぱら高級洋食を供したと伝えられる。しかし、和食堂(車)の要望も強く、1906(明治39)年から当時の急行列車で和食堂車の連結が始まった。

 その後大戦前までの「食堂車」は当時の食習慣を反映して「和食堂車」が中心で、外国人の利用が多かった特急列車は「洋食堂車」を連結するなど列車別の客種に応じて「和」「洋」の食堂車に区分されて発展した。

 時刻表にも「和」食堂車は「茶碗とお膳」のマーク、「洋」食堂車は「ナイフとフォーク」のマークと区分して表示された。しかし、戦時中の「食堂車」空白時代(43年―)を経て49年の戦後の復活に際しては、当時の占領軍の意向もあり和洋食の区別のない「食堂車」として復活している。

 昭和20年代後半になると日本人の食習慣の「洋風化」が急速に進み、戦後の「食堂車」は和洋食堂車の区分なしでも再発足している。昭和30年代に入ると、戦前のように特急急行列車のほとんどに「食堂車(和洋食堂車の区別なく)」が連結されるようになる。

 戦後の復活にあたって新しいサービスとして食堂車とあわせて半車の軽食堂車(軽食喫茶中心立席の)“ビュッフェ”が連結され、車内の供食態勢に新しい一石を投じたのが注目される。

 しかし、昭和30年代に入ると電化、ディーゼル化などで急行列車のスピードアップが進み食時間帯にかかわらず旅行できる区間が増えてきたこと、また乗車前後に各地で開発されてきた駅ビルの食堂街で食事をとる人が増え、「食堂車」の利用が急減し、旅行中の食事事情が急速に変わってきた。乗車前後に駅ビルなどの食堂街などを利用する人が増加し、食堂車利用も急減したのである。

 「駅弁」の売上にも変化が見られ、進行中の車内で食事を楽しむという従来の旅行形態も変化し始めた。車内での供食態勢も軽食堂“ビュッフェ”が中心となり、同時に車内販売品目の充実で旅行中の食事を賄う方向に変わっていき、食堂車の需要が減少するようになった。

 また、列車のスピードアップは車内で食事する機会も減少傾向となった。それまでの乗車中に食事する慣行に変化も生じ、移動の前後に充実した駅ビル食堂街などで食事をとる方々が急増。旅行中の食事事情が大きく変わるようになった。

 しかし車内で移りゆく沿線の景色を楽しみつつ食事する楽しみには根強いものがあり、それらは観光列車(臨時運行、団体列車中心)の需要につながっていく。

 このため、旅行中の供食サービスを駅、食堂、駅弁などが互いに連携・補完しつつ提供する必要が生じ、旅行中の駅や車内での供食の総合的なサービスシステムの整備が求められるようになってきているのが現状である。

 北国の民鉄の努力によって運行されているストーブ列車への乗車は、私にとって心に残る旅となった。

 

須田 寛

 

日本商工会議所 観光専門委員会 委員

 
須田 寬 氏
 
 
 
 

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