宿の現代性 ― アナクロニズムには耐えられない
食通は、高級な牛肉などはとうに食べ飽き、鴨肉や鹿肉、熊肉、鳩や雉、ウサギなどジビエに食指が動く。それにも飽きたらなくなれば鰐や蛇、蛙、蠍など“ゲテモノ食い”に向う。また、肉よりも皮を好み、やがて皮よりも内臓に耽溺し、最後は骨まで味わい尽くすと言われる。グルメに限らず、あらゆる分野で、口当たりの良い「万人向け」から入り、より刺激を求め、先鋭的なものや、苦みのある珍味なものに向っていく。旅先選びや宿選びもその傾向を持つ人もいる。かく言う私も近年はより“秘した”離島の宿などに魅かれるようになった。陸続きよりも、一度今生との「結界」を意味するような小さな船に乗ってたどり着く島に胸が騒ぐのである。それも、港から反対側の僻地にひっそりと佇み、一歩足を踏み入れるとどことなく居心地がよい宿に出会いたいと思っている。だが、私が常に夢想のように思い描くその“居心地の良さ”とは、一体何に依拠しているのだろう。
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よく考えると、離島で、しかも港の反対側の宿を好むなどというのは、どこか病んでいる証だ。夢想するのは、一週間ほどの間、すべての連絡を断ち切って朝から凪いだ海で釣りをして、夕方に地元の居酒屋で適当に飲み、小さな宿に戻る旅。決して前向きではない、遁世的で、背徳的な旅だ。ただ、そのような旅も逆に1週間が限度だろうと自分でもわかっている。
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旅人が田舎の宿に泊まって「素朴なところがいい」と褒めることがある。意図して「素朴な感じ」を演出している宿がある一方、宿に入った途端、懐かしさを感じさせるところもある。しかし、その懐かしさは、最初はレトロ(懐古的)な感情に支配されているが、次第に我慢できなくなっていく。人は、現代性を失い過去に戻されたような空間に居続けることが苦痛に感じてくるのである。過去に取り残された時代錯誤なもの、つまり「アナクロニズム」には耐えられない。
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地方の宿でも、このアナクロニズムに陥らないために、先端のデザインを宿に取り入れようとする経営者もいる。一見すると、内装も都会的で洒落たデザインである。しかし、どこか違う。しっくりとこない。おそらく、東京で流行っていると思われるデザインを無批判に取り入れた結果なのではないだろうか。現代性とは、表面の模倣ではなく、自らがさまざまな社会的な事象と広く関係しながら、「今」という時代を深く考え、生きることである。
現代性を失った宿は「社会との関係性の一切を断ち切りたい」と願いながら訪れる“旅人の矛盾した心”をも不安にさせる。仮に、秘境で旅人を1週間滞在させるには、最先端の思想と、それを上手く包み隠せる技術が必要である。
「通」は退屈を嫌い、ゲテモノや珍味に向うが、それは毎日のことではない。
この世で最も強い存在は、普遍性と日常性をより強く持ち続ける者である。宿もそうだ。万人受けする宿は、普遍性を持つ証左である。
しかし、もし自分の宿の存在が、より刺激を求める旅人を相手にする“ゲテモノ的”であるのなら、その矜持によって、上辺だけの模倣を自ら破壊してほしい。私は離島の反対側で最新ロボットを操り、『ヴォーグ』を読むような主人の宿で過ごしたい。
(編集長・増田 剛)