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被災地を訪れて ― 教育旅行でも“ガイドなし”の現場

2015年11月21日
編集部

 先日、岩手県陸前高田市と宮古市田老の被災地を訪れた。現地ガイドさんの案内で、東日本大震災を体験したうえで、防災意識を強く持つことの大切さや、その防災意識を今後も薄れさせないための努力、また、復興に向けたまちづくりの課題などについて深い話も聞けた。

 近く本紙で記事として紹介する予定だが、そのときに少しショックな場面に出会ってしまった。

 陸前高田市の震災遺構「道の駅高田松原」の前で、現地のガイドさんから案内を受けていたときに、1台の大型貸切バスが到着した。ガイドさんは案内する次の団体客のバスかと思い、近づいて行くと、約束していた団体とは違うバスだった。

 停車したバスから大学生たちが30―40人降りてきた。若い学生たちは大津波によって破損したままの道の駅の前に佇み、写真を撮ったり、眺めたりしていた。

 道の駅の外壁には、津波が到達した高さ14・5メートルの印がつけられている。すぐ近くに建てられた「陸前高田復興まちづくり情報館」では震災の状況や復興に向けての取り組みなどもパネルで紹介されているのだが、学生たちは震災遺構の前で何の説明もなく佇むだけだった。

 見かねたガイドさんが、学生たちに話しかけると、ガイドも何もないのだという。そこでガイドさんは約束している団体のバスが到着するまでのわずかな時間、学生たちのために、ミニガイドを始めた。すると、あっという間に地元ガイドさんの周りに学生たちの輪ができ、説明を聞きながら被災地を、さっきとは違った目で見渡していた。

 被災地を学びに訪れた学生の団体に、現地ガイドを付けないというのは、どういうことだろうと、考えた。もちろん、被災地を自分の目で見て、何かを感じ、そして自分で考え、疑問に感じたことをさらに自分で調べるというのが学習であるという考え方もある。しかし、実際に災害を体験した現地の人たちの声を聞き、その場で疑問を投げかけ、それに対する答えについて再度考えていくといった他人との「対話」がなければ、より深く考えることは難しい。

 所詮、人間個人の考えなんて多寡が知れている。自分の価値観を壊されるような強烈な体験こそが、価値ある体験であり、語り部による震災学習には、その可能性が埋まっている。

 最近は、学校の教育旅行でもバスガイドを付けないケースが多いと聞く。貸切バスの新運賃・料金制度に移行して以降、ツアー料金が値上がりしたため、教育旅行の現場でも、バスガイドをやむなく諦めざるを得ないという現象が起こっている。

 今回の東北の震災被災地を訪れた取材旅行では、何人かの現地ガイドさんに話を伺う機会を得た。震災からまもなく5年を迎えようとするなかで、ガイドとしてどのように伝えたらいいのか、古文書で地元の歴史を調べたり、地質学者に直接取材をしたり、記憶が薄れる前に被災者の声を収集してまわったり、日々考え続けられていた。

 これは被災地に限ったことではない。その地を初めて訪れる旅行者や、より深く知りたいと思う人々に対して、まちの案内役となるガイドの役割は大きい。旅行会社も料金交渉ばかりのツアー造成では味気ない。できる企画マンは、良い現地ガイドや、バスガイドさんを知っている。

(編集長・増田 剛)

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