test

「観光人文学への遡航(50)」 日本の複線型学校制度

2024年8月4日(日) 配信

 戦前及び戦時下の教育課程は、現在とは異なり「複線型学校制度」であった。

 複線型学校制度とは、主にヨーロッパ諸国で発展し定着してきた制度であり、小学校を卒業した段階から異なる修業年限、学校種が併存している学校制度である。戦前の日本では、小学校卒業後は、個々の生活環境や将来への志望によって中学校、高等女学校、高等小学校、実業学校など多様な進路を選択していた。エリート養成の狭き門である大学へ進学するには、まずは中学校に進学し、中学校の後に高等学校または大学の予科を経るルートしかない。この中学校もまた地域のエリートが進学するところであった。

 (旧制)専門学校は、いまの専門学校とは異なる位置づけの学校である。中学校からの進学先で、大学に準じる扱いであった。専門学校は、大正期から昭和期にかけて量的拡充がはかられた。1920年には校数74校、生徒数2万2千人であったものが、1940年には校数121校(1・6倍)、生徒数約8万8千人(4倍)へと増加した。うち女子生徒の数は1677人から1万9900人と12倍近くも増加していた。

 ちなみに、大半の(旧制)専門学校は、戦後の教育改革で6・3・3・4制の単線型学校制度に変化していくなかで、(新制)大学または短期大学になる道を選択した。

 一方、現在の専門学校の起源となる学校は、戦前においてはほとんどが各種学校であった。その各種学校は、正規の学校系統には属しておらず、寺子屋や藩校などが学制下においての尋常小学校や中学校になっていくなか、私塾、家塾といったものが、各種学校のカテゴリーに属することとなる。 

 各種学校は、明治以降の近代的な学校体系が整備されていく過程において、正規の学校体系から取り残されたいわゆる「不完備」の学校を包括する教育制度として扱われた。その法制度上の位置づけは学校系統に属している学校と比較すると曖昧ではあったが、このことが、法に拘束されず自由に成長していくというその後の発展につながっていく。戦前の各種学校の規模は、最大時で約2500校、生徒数は約37万人にのぼり、主な教育内容は予備教育、実業教育、女子教育、宗教教育などであった。

 各種学校と制度化された学校との間には、絶対的な差異がないとしたら、両者を区別しているのは「国家の意思」であるとしている。すなわち、国家が新しい種類の学校を国の制度的学校と認めた途端にそれは各種学校であることをやめて、制度化された学校になる。そうやって、複線型の制度が維持、強化されていくことになった。その複線型学校制度は、太平洋戦争が始まり、小学校が国民学校となり、枠組みはそのまま維持されたまま、戦時の国家総動員体制へと進んでいくことになる。

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

いいね・フォローして最新記事をチェック

コメント受付中
この記事への意見や感想をどうぞ!

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE
TOP

旅行新聞ホームページ掲載の記事・写真などのコンテンツ、出版物等の著作物の無断転載を禁じます。