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「観光人文学への遡航(51)」 戦時の国家総動員体制下における教育

2024年9月8日(日) 配信

 複線型学校制度の特徴のひとつとして、教員養成を担う師範学校が独立していることが挙げられる。師範学校は、給費制が採られ、授業料はかからなかった。そのため、学業が優秀だったにもかかわらず、裕福ではない家庭に生まれた人材の能力発揮の場ともなっていた。「坂の上の雲」で有名な秋山好古、東急の創始者五島慶太、朴正熙も師範から教員を経て立身出世した人々である。

 師範学校の学生は、最大25年の徴兵の延期が可能とされていた。また、師範学校を卒業して小学校教員に就職する学生は、短期現役制度により5カ月間の兵役のみとされていたのである。戦前、戦中は教員養成に手厚い支援がなされていたことがここからもわかる。

 現在、教員のなり手不足が大きな社会問題となっているが、戦前の教育行政と比較しても現在は大きく見劣りがする。戦前の教育行政を調べていくと、「教育は国家百年の大計」との気概を感じる。

 戦時下も、複線型学校制度はそのまま維持され、尋常小学校が国民学校となり、実業補習学校と青年訓練所が青年学校と改称され、国民学校初等科卒業後、旧制中学校、高等女学校に進まずに職業に従事する勤労青少年男女に対して教育を行う学校として設立された。

 第二次世界大戦において、次第に日本の敗色が濃くなると、1943年10月閣議決定された「教育に関する戦時非常措置方策」において、理工科系統および教員養成所学校学生を除き、一般学生の徴兵猶予を停止し、学徒の全面的な出陣となった。 

 さらに、文科系大学および専門学校は入学定員を従前の2分の1程度になるように転換・整理・統合し、理工科大学および専門学校は整備・拡充することになった。

 勤労動員については、これを教育実践の一環として強化した。学徒の勤労動員に対する要求はさらに強くなり、1944年12月以降は、中学校以上の学生・生徒は1年を通じて常時勤労そのほかの非常任務に出動し、やがて予想される本土決戦の態勢について万全の備えをなすこととなった。

 また、学校を工場、軍用非常倉庫、非常病院、避難住宅その他緊急の用途に転用するなど、学校教育すべてをあげて決戦の体制を整えた。遂に1945年3月には「決戦教育措置要綱」の閣議決定によって、国民学校初等科を除き学校における授業は停止することとなり、5月22日勅令「戦時教育令」によって最後の決戦段階に突入することとなった。

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れて終戦となった。終戦を契機として、日本の国政全般は連合国軍最高司令部(GHQ)の占領政策のもとに実施されるようになり、教育行政もGHQの指示のもと、根本からの改革に迫られることとなる。

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

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