「観光人文学への遡航(53)」 戦後のGHQによる教育改革
2024年11月6日(水) 配信
ポツダム宣言の受諾により、第2次世界大戦が終結し、連合国軍最高司令部(GHQ)が日本に進駐し、国家の根幹からの変革に着手した。活動を開始したのが10月で、同月22日には「日本教育制度ニ関スル管理政策」の指令を発している。彼らにとっては教育制度の改革は大きな地位を占めていた。
GHQは占領前から日本の教育制度に関して綿密に調査が行われていた。GHQ内にある民間情報教育局(CIE)が中心となって教育課程、教科書、教員養成教授法、一般行政、高等教育の4部門で委員会が組織された。そして、GHQは日本側においても、これからの改革を推進していくパートナーを求めた。その求めにしたがって組成されたのが、「日本教育家の委員会」である。
GHQが日本の教育に求めたのは、米国と同様の6・3・3・4制のいわゆる単線型教育制度である。
戦前の我が国はヨーロッパの教育制度をモデルにして、大学教育、職業教育、補習教育、教員養成といった機能別に分化した複線型の学校教育体系になっていて、それは小学校を卒業したあとの中等教育から分化していた。アメリカ型の学校教育体系にするということは、中等教育から高等教育まで、すべてを中学校、高校、大学の枠組みに当てはめるということである。
アメリカは、「高等教育は少数者の特権ではなく、多数者のための機会とならなければならない」という平等主義に立脚した教育理念を持っている。そして、男女の別や経済力に左右されず、能力に応じて常に機会が与えられなければならないという考え方が重要視されている。それを実現するために、政府からの統制の自由、一般教育の重視、カリキュラムの自由化が求められた。まさに戦前の学校教育からは一大転換が求められたのである。
これはかなり困難を極めた。日本側にはアメリカの教育体系を熟知した専門家は少なく、議論は紛糾した。6・3・3・4制だけでなく、職業教育の充実のために6・3・5制を強く主張する委員もいて、議論はなかなかまとまらなかった。
そこで、リーダーシップを発揮したのが南原繁である。南原は東京帝国大学総長、日本教育家の委員会委員長に加え、新たに設置された教育刷新委員会の委員長も兼ねた。南原は、アメリカ側と数度にわたって極秘に会談し、日本の教育改革案を手渡していることが分かっている。南原はそのなかで、学閥の原因となっている旧制高校の廃止、大学までつながる単線型学校制度の導入、専門学校と大学の格差を廃止し均等化を主張した。アメリカ側からすると好都合な人物であった。
ちなみにその後、南原は吉田茂と論争になり、吉田が南原に対して発した「曲学阿世の徒」という言葉が現在でも伝わっている。
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。