旅人が求めるもの… ― 模倣ではない、普遍性の追求を
イーグルスの名曲「ホテル・カリフォルニア」は架空のホテルだが、砂漠のハイウェイを走りながら見つけた小奇麗なホテルに滞在するも、快楽主義的な滞在客に嫌気がさしてくる。荷物を持ち、ドアに向かいホテルを去ろうとしたとき、夜警に「あなたはいつでも好きなときにチェックアウトできるが、ここを離れることはできない……」と言われる暗示めいた歌詞で終わり、哀愁漂うメロディーが続いていく。
乾いた風が吹く米国西海岸の気候や風土、そして退廃的なムードがホテル・カリフォルニアを聴く度に感じられ、私はこのような、どこか洗練された気だるいリゾート地を意識的に、この日本のなかに探していた。東京近辺では広大な太平洋を臨む湘南エリアが近いのかもしれない。哀愁が漂うという観点では、夕暮れ近い房総半島の九十九里浜も独特の魅力を感じる。いずれにせよ、退廃は洗練の滅びの美学であり、洗練は模倣ではなく、自ら深みへ突き進む探求の過程で発火する一瞬の炎の照り返しのようなものである。
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滞在という旅について、しばしば思案を巡らす。
日本は「お伊勢参り」や「参勤交代」など、古くから街道文化が発達してきた。歩き疲れた体を休めるために街道沿いの宿に1泊し、夜は酒で仮初めの宴を楽しみ、翌朝には次なる目的地へと足を運んだ。
一方、山の奥には湯治という文化も古くからあり、長期間湯治宿に滞在して温泉に浸かり、疲れた体を癒してきた文化も残っていた。だが、高度経済成長期や、バブル期の観光ブームによって全国の多くの温泉地は歓楽化し、その後、旅行の個人化などにより、湯治文化も、そして歓楽街も廃れていった歴史がある。時代の大きな波に乗り、その後社会が移り変わると新たしい時代に取り残され、廃墟と化した温泉地を目にする度に、荒廃した風景に悲しさを覚える。退廃は色気を残すが、荒廃は虚しさを残す。世事や人心は無常であり、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」である。そのような世の中で、滞在客が魅きつけられる場所とは、どのような場所なのか。
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おそらく、特定の国や、文化、風習に縛られるものではない。旅人すべての心の奥に潜む、「隠遁」願望や「ペルソナを脱ぎ捨てたい」という欲求を満たしてくれる空間だろう。
ただ、それら欲望を叶えるには、太陽や海、風、大地とつながった原始的なエネルギーが不可欠であり、高度に洗練された文化と思想がそこに融合されていなければならない。
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東京に来て、人気のホテルやレストランを視察し、それらを地方で模倣するケースも見られる。安楽世界が有する普遍性を追求するなら意味があるが、表面的なデザインやコンセプトを横取りして取り入れるだけなら、やがて形骸化するだろう。
日本にいながら、東京ばかりをみると、どうしてもドメスティックな視点に縛られる。現在ならインバウンドブームなどに踊らされ、結局、旅人が求める安らぎの深遠部分まで思想は届かず、いずれ廃れていってしまう。もし、日本の地方にあなたの宿が立地しているのなら、東京ではなく、アフリカやインド、フィンランドに行くべきである。そこで感じた旅の安楽は、地球の反対側の日本でも同じであり、それこそが“普遍性”である。
(編集長・増田 剛)