「観光人文学への遡航(55)」 追悼 三尾博氏(2)
2024年12月31日(火) 配信
先月から日本航空の三尾博氏の追悼記事を連載している。名営業マンとして辣腕を振るった三尾氏は、激動の90年代に名古屋支店で課長を務め、直属の部下として私は薫陶を受けた。
94年に関西国際空港が開港し、需給バランスが崩れたことで関西マーケットから旅行商品の価格破壊が起こり、それが首都圏に飛び火した。どちらも際限のない安売り競争になってしまい、旅行会社の倒産も相次いだ。
その中間に位置する名古屋も大いに影響を受け、関西発、成田発の安いツアーがマーケットになだれ込んできた。当時は、「AB―ROAD」が台頭してきたころで、中小のエアオン(Air Only)エージェントがなりふり構わず安いエアオン商品を販売し始めた。既存の旅行会社としても安くしなければ売れないから、我慢しきれずに安い価格に流れていきそうになっていた。
そのたびに、三尾課長は旅行会社の支店長や仕入れ担当に電話をし、安売りの弊害を説いた。関西マーケットが安くても名古屋のお客様は関空には行きたがらない。名古屋空港から発着したいから、絶対に値段を合わせなくても売れると伝え続けた。
結局安売りというのは、営業マンが、お客様ではなく旅行会社の圧力に我慢できなくなって下げているだけなのだから、絶対にふんばれると三尾課長は見ていた。だから、ずっと「島川、踏ん張れ」と言われ続けていた記憶がある。
途中、全日本空輸が名古屋ホノルル線に再参入し、外資よりも安い価格で卸して来ていたときもあった。それでも、三尾課長は「日本航空が全日空に価格を合わせたら、彼らは絶対にまた下げてくるから、俺たちが踏ん張らなければいけないんだ」と値段を合わせることを認めなかった。
今の感覚からするとめちゃくちゃだが、安売りをした外資系航空会社に電話をしたり出向いたりして、安売りするなと申し入れたりもしていた。
「値段を安くするだけしか能がないのなら営業マンなんかいらない」もう論理も何もなかったが、それでも、結局、名古屋マーケットだけは値崩れはしなかったし、安売りが続く関空にお客様は流れなかった。こんな状況だったにもかかわらず、名古屋支店が主要支店では唯一販売目標を継続して達成を続けることができたのは、安易な安売りに流れなかった三尾課長の判断の賜物である。
90年代は、旅行会社と航空会社はお互いに真剣勝負の駆け引きがあった。それまでは、元値が高かったから、安売りも需要喚起で機能することも多かった。それが限界まで安くなってしまったことで、消耗戦になっていた。それを見越して、もうかつてのような営業マンの顔で安くすることの不毛さにいち早く気づいた三尾課長の先見性は特筆すべきものである。
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。