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考え続けること ― 「自分だけと付き合う濃密な時間」

2017年5月1日
編集部

 サッカーをする1人の少年を眺めていた。その子はまだ小学校の低学年。チームメイトからパスを受けるたびに、目を引いた。ショートパスを受けるときは小さな足先で、ロングパスは小さな胸で受け止めて、ポトリと足元の絶妙な位置に落し、瞬時にシュートを打っていた。まだ10歳にもならない少年の何気ない一つひとつのプレイが光って見えた。

 多くの子供たちは一流選手の真似から始めるが、華麗な技の習得はそう簡単ではない。

 高度な技術は、地道な基礎練習が必要だ。上手になりたい、という一心で、同じ訓練を積み重ねていくしかない。私が見た少年もまた、何度も、何度も同じことを繰り返す反復練習を、誰も見ていない場所でしているのだろう。少年の積み重ねてきた鍛錬の時間を想像した。

 絡み合った関係性を完全に切り離した時間を持つこと、そして、その時間を自己の訓練のために没頭することは、現代人にとって、とても難しい環境になりつつある。

 私はプロボクサーが縄跳びをする姿が好きだ。鍛錬の度合いが常人とは一線を画していることを、一瞬にして理解させる。

 ピアニストが演奏前に鍵盤を叩きながらその感触や、音の具合を確かめる。不規則な鍵盤操作がしばらく続き、あるときいきなり美しい旋律を奏で出す瞬間も、たまらなく好きだ。

 何かを極めるには、社会との関係を切断した「自分だけと付き合う濃密な時間」が必要なのだ。

 先日、スマートフォンが突然壊れた。新しい機種の初期設定に戸惑い、3日間ほど使えない状態になった。

 スマホがない数日間は、視界が晴れた。自分が日々どれだけ多くの時間、スマホを見ていたかを把握できた。そして、いつの間にか、じっくりと考えるための膨大な時間が奪われていたことに気づかされ、大きなショックを受けた。

 世の中がリアルタイムでどう動いているか、わずかな暇ができると、ネットニュースを探してしまう毎日だ。手元の小さなスマホには、国内ニュースや、国際情勢、スポーツの結果、芸能人のゴシップネタ、凶悪犯罪事件の続報などが刻一刻、切れ目なくアップされてくる。どうでもいい情報もインプットしてしまう。日中だけではない。夜中にふと目覚めると、暗闇の中でスマホに手を伸ばし、何か新しい出来事が起こっていないかと調べたり、SNS(交流サイト)をチェックしたりして、眠れなくなることも稀ではない。

 さまざまな方々にインタビューでお話を伺う機会がある。取材中、あらゆる質問を投げかけるが、どのような問いにも深い言葉で返される方がいる。日々考え続け、考え抜いて生きてきたからだと思う。どのような立場にあろうと、それは同じだ。プロボクサーの縄跳びのように、あるいはピアニストの指先と同じように、対話の中で、鍛えられた思考力に圧倒されることがある。考え続けることの“凄み”を感じる瞬間だ。

 スマホは便利であり、高度な情報化社会において、もはや必需品となっている。しかし、自らの技術を磨く時間や、思考し続ける意志が、気づかぬうちに削られているのなら、それは脳の退化でしかない。あのサッカー少年のように、人知れずボールを蹴り続ける姿を忘れまいと思う。

(編集長・増田 剛)

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