「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(157)」はじまりは一輪の綿花から(岡山県倉敷市)
2018年2月25日(日) 配信
訪日外国人客はまだまだ少ないが、年間600万人超の観光客を迎える岡山県倉敷市は、いまや日本を代表する観光地の1つである。
その「倉敷」の名は、中世以来、支配地の年貢米や貢納物を集めておく場所、「倉敷地」に由来すると言われる。この蔵屋敷の街並みが、現在の美観地区である。現在の倉敷市は、1967年に児島市、玉島市との新設合併によって発足。県下では岡山市に次ぐ48万人を擁する中核市であり、製造品出荷額4・5兆円は、京阪神を除く西日本最大で、大阪市などと並ぶ工業都市でもある。
しかし、かつての児島、玉島を含む倉敷のエリアは「吉備の穴海」と呼ばれる一面の海であった。近世以降の干拓によって徐々に塩田など陸地に姿を変えたが、干拓地は米作に適さず、綿やイグサが栽培された。まさにその「一輪の綿花」から、明治以降、民間紡績業の育成が奨励され、下村紡績(児島)、玉島紡績(玉島)が開業。そして1889(明治22)年には英国式最新機械を備えた有限責任倉敷紡績所(のちの倉敷紡績・クラボウ)が設立、大原孝四郎が初代社長に就任した。かつて塩業が盛んだったこの地域は、その後、日本一の繊維産業の地に転身した。
1906(明治39)年2代目社長に就任した大原孫三郎は、紡績業で得た富でさまざまな文化・社会・福祉事業を手掛けた。工員が初等教育すら受けていないことに驚き、職工教育部や尋常小学校を設立した。大原美術館の礎となるコレクションを集めた洋画家・児島虎次郎もこうした奨学生の1人であった。
工員の労働環境改善にも熱心で、社宅には医師や託児所も備え、社員勧誘用の映画まで作った。日露戦争などで増えた孤児のための孤児院への支援や、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、工員だけでなく市民の診療も行った。これらの支援金額は巨額に上ったが、反対する重役たちに「わしの眼は10年先が見える」と言って押し切ったというエピソードもある。
こうして倉敷は世界に誇る「日本一の繊維のまち」に成長した。その発展の中で形作られた伝統的な商家群と、旧倉敷町役場など明治以降の洋館建築が調和する、素晴らしい街並みを生み出して今日に至っている。
この地域発展史をストーリー化したのが日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」である。
物語には起承転結があるが、「結」は新たな「起」につながってこそ地域は持続する。かつて学生服で有名であった児島地区は、今や数々のジーンズメーカーがひしめく世界ブランドとなりつつある。単なる生産地ではなく、「ジーンズストリート」を核にした新しいまちづくりも始まっている。
1人の優れた人物の想いや事業が、地域の新たな未来を拓きリードする。倉敷は、そんなスピリットに富んだ地域である。
(東洋大学大学院国際観光学部 客員教授 丁野 朗)