現地レポート(3) 震災から1年半 南三陸ホテル観洋のいま
震災から1年半。「南三陸 ホテル観洋」の現状から、被災地の復興と課題を見つめていくシリーズも3回目となった。マスメディアによる被災地のニュース報道は減少している。しかし本紙では、一つの施設の状況を定期的に追うことで、状況の推移と、考え方、取り組み方を学ばせてもらおうというスタンスだ。今回も、疑似体験しよう。
◆復興と解体
人口1万7666人・5362世帯だった南三陸町は、津波で62%に当たる3299世帯が消滅した。現在の湾は美しく穏やかだが、後ろの町を振り返ると、視界のずっと先まで、建物がない。広がる平地には、皮肉なほどすくすくと雑草が伸び、初めて来た人は、もともと野原かと勘違いすると聞く。脳裏に浮かぶ「風化」の文字を、頭を振って、払いのけた。
現在、南三陸町では、被災のシンボル的な施設の解体が進んでいる。見るのも辛い建物を消し去りたいという思いや、すっきり新たな町づくりをしたいとする思いがあるのだろう。
しかし一方では、被害を後世まで語り継ぐために、ある程度は残しておきたいと考える人もいる。見学者が引けも切らない南三陸だからこそ、「ここに来たら防災意識が高まる」と認識される学びの地であり続けたいという声だ。
筆者の推測だが、こういうとき被災地の女将さんたちは声を挙げづらいかもしれない。未来のための純粋な意見でも、観光業だからと思われかねないからだ。
ホテル観洋の阿部憲子さんは、避難所として600人の被災住民を受け入れていた立場から、「何らかの遺構は必要」と考える。「おじいさんやおばあさん、親から言い伝えられたことを守った人たちは、避難の考え方や備蓄に違いがあると感じるのです。被災した建物もまた、将来にわたって、大切なことを無言で語ってくれるように思います」。
◆ホテルの役割
ホテル観洋は、昨年夏から通常営業を再開。稼働率はすでに震災前(85―90%)に戻っている。修繕や仕入れ先の確保、スタッフへの配慮など、苦労の賜物だろう。
震災後は、来館客の住むエリアがぐんと広がった。以前は、東北の人が60~70%を占めたが、現在は東京、関西、九州も。これまで出会えなかったエリアの人に、南三陸のよい思い出を持って帰ってもらうのも大きな役割だとする。
大型ホテルの観洋がにぎわっていることで、その分、地元の魚が消費され、酒屋に発注が行き、仮設商店街にも人が流れる構造がある。
また、ボランティアによる館内イベントの申し込みにも協力的で、地元住民を招いて楽しみのひとときを提供する。ひと月のうち10日間、60歳以上の地元住民に温泉施設を無料解放するサービスも続行中だ。互いに助け合い、感謝し合う環境と言えよう。
だが、どの被災地も同様だろうが、被災地の中でも格差が広まっている。そんななか、「町全体との共存バランスをどう取っていくか」は、前進する会社であるほど、新たな課題となるかもしれない。
◆できることから改善
自分たちでできる改善はスピードを持って当たっているホテル観洋。近々、館内に念願のATMが設置されそうだ。
「長期滞在のお客さま、スタッフ、町の方。みんなに便利なものですから、館内にATMがあればいいなと思っていたのですが、金融機関に打診すると『周辺に家は何軒あるんですか』という収支の話になるんですね。自然災害で多くを失った地域は復興も容易ではありません」
しかし、阿部さんはあきらめず2行、3行と聞き続け、とうとう6行目で願いが叶いそうだ。「現地の実情を知ってもらえたのが良かったです。どんな方に出会えるかが結局は大きいのですね」
また町のインフラ面では、「BRT」(バス高速輸送システム)の運行が始まったのも改善の一つだ。
JR「気仙沼線」は、石巻の前谷地駅と気仙沼駅を結ぶ路線だったが、南三陸町の手前の柳津駅から北は、復旧の目処が立っていない。
そこで、代替的な運送手段としてBRTが導入された。BRT の運行当初は、大勢が利用するホテル観洋の前を素通りしていたが、理解を得られて停留所の形が取られた。
◆南三陸町観光協会
南三陸町観光協会とホテル観洋は、互いに不可欠な存在だろう。同協会によると、ここ数カ月、毎月2千人の視察者を手配しているという。この人数は、ガイド付きの視察参加数で、実際は協会を通さずに訪れる人も多いはずだ。よって、少なくとも2倍以上(4千人以上)の人々が、毎月、南三陸を訪れていると見ている。
1日当たり133人もの集客は、口コミと旅行会社からの受け入れで成り立つ。南三陸町観光協会主査の佐藤昭洋さんは次のように語る。
「当協会が手配するツアーは最小遂行人数10人で、これまでの最大は学校単位で来られた400人です。100人前後の団体さんも多いですよ。民間企業や有志の会、学校が多くを占め、消防団や自治体など行政団体は約20%です。繰り返し来てくださる方も多いですね。被災された語り部の話を聞いて帰った人が、感銘を受けて周りに話す。すると、聞いた方が自分も現地で話を聞きたいと思う。また一度、来た方が『南三陸はどうなっただろう』と、気にしてまた来てくれる。そうした連鎖が見られ、励みになります」
視察ツアーは、学校教育や企業研修にはうってつけの場だと思う。草むしりやがれき処理も同時に行うと、なお学びが深いという。生きるとは何か、働くことの有り難さ、親や周りへの感謝など、これほど一度に学べる場所がほかにあるだろうか。南三陸に限らず、被災地は絶好の学び舎だ。
◆観光の使命
震災観光の増加は喜ばしいが、職員の方々はほかにも仕事があり、休みは格段に減ったであろう。1年半、走り続ける原動力はどこから来るのだろうか。
「みんな全力で走って来ましたが、まだまだゴールは見えません。でも、いま我々ががんばらないと。震災観光を普通の観光につなげるために、視察に目を向けてもらっているときに、語り部のみなさんと協力して、できるだけ情報を発信しておきたいと思っています」(前出・佐藤さん)
この夏、同協会ではうれしいことがあった。震災後初めて、震災前から行っていた体験学習を再開できたのだ。「ホタテやホヤの収穫体験でした。アメリカから来た学生さんが体験して喜んでくれ、我々もすごくうれしかったですね」(同)
また、視察者から寄せられる手紙にも元気づけられるという。テレビで見て分かった気になっていたが、現地はまるで違うこと、もっと大変で、もっとがんばっていると思ったこと、身内を亡くした方が、辛さに耐えて語ってくれる体験は本当に貴重で、苦労の度合いが伝わってくることなど、参加者の感想はみんなの財産となっているようだ。
◆心根の持ち方
南三陸を訪れるたびに思うのは、心根をどう持つかということである。元気なほうと、沈んだほう、どちらに影響を受けるかで、その後が決まってくるように思われる。
たとえば、語り部たちはシニア世代だが、地元の人によると、妹さんや弟さんじゃないかと思うくらい若返っており、苦しみを背負いながらも使命感を持って生きているからだろうという。人の役に立ちながら懸命に生きることは自らも救い、感動も与えるのだ。
ホテル観洋の阿部さんは4日間、家族の安否が分からなくても「目の前の現実に向かっていくことが役目」と考え、不安感をおくびにも出さなかった。未来を信じ、再開へのスタートダッシュが早かった。あのとき躊躇していたら、1周も2周も遅れていたでしょう、と阿部さんは考える。
この1年半、阿部さんが休んだ日はなさそうだ。「休むという感覚はないんですよね。とにかく前進を考え続ける毎日です。私は、頭は弱いけれど、心は強いようで(笑)。親に感謝ですね」
◆これからの課題
時間に追われて全体ミーティングの時間が持ちにくくなってきたことと、人材不足が課題だという。「お客さまが来てくださるのは本当に有り難いのですが、スタッフが足りません。当館はこの夏、創業40周年で初めて人材派遣会社に頼みました。地元の人に働いてもらうことが地域貢献と思ってきましたが、いないことには仕方ありません」と阿部さん。
しかし、ほかの地域からのスタッフが増えることで、また新たな文化や勢いが生まれるかもしれない。阿部さんのもとであれば、良い結果になることだろう。
半年後の2周年、3周年と、どのように課題を乗り越え、復興へ向かっていくのか、学び続けていきたいと思う。
語り継がれる「つなみのえほん」(工藤真弓・著)
南三陸町の丘に鎮座する「上山八幡宮」の神職・工藤真弓さんは、あの日、家族と神社の裏山へ逃げ助かった。しかし家は全壊、現在は40分離れた仮設住宅で暮らしながら、神事とまちづくりのアドバイスに力を注ぐ。大自然への畏命や命の大切さを伝えるために書いた「つなみのえほん~ぼくのふるさと~」は、紙芝居にもなって語り継がれている。