「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(164)」明治150年と生野鉱山(兵庫県朝来市)
2018年9月23日(日) 配信
日本の近代の象徴といえば、シルクと鉱山である。明治の貧国日本が外貨を稼ぎ、一等国になるためには、この2つの産業近代化は不可欠であった。
そして、シルクは官営富岡製糸場(明治5年操業・世界遺産)、鉱山は、明治元年に日本初の官営鉱山となった生野鉱山である。
生野鉱山の歴史は古く、807年(大同2年)と言われる。但馬地域で、同じ時期に開坑した明延鉱山の銅は、奈良の大仏鋳造にも使われたという。こうした鉱物資源は、それぞれの時代の権力者の財源となり、抗争も絶えなかった。生野で大規模な鉱脈が発見された1542(天文11)年以降、但馬守護の山名祐豊が採掘をはじめ、以降、織田信長、豊臣秀吉が支配してきた。徳川家康が天下を取った江戸時代以降、生野奉行所が置かれ、幕府の直轄領として庇護されてきた。こうして生野で採掘された銀は、日本の代表的な輸出品として海外からも注目され、天下の台所・大坂の貨幣経済と文化に大きな影響を及ぼした。
生野鉱山は、我が国の鉱山近代化の先駆けともなった。御雇い外国人ジャン・フランシスク・コワニエ(Jean Francisque Coignet)は、当初、鉱業調査のために薩摩藩によって招聘されたが、明治新政府は彼を帝国主任鉱山技師として生野鉱山に派遣した。こうして生野鉱山には、機械式精錬技術、火薬による発破法の採鉱、鉱業用の送水路やダムの建設、トロッコ軌道による鉱山鉄道など、その後の各地の鉱山近代化の基礎が築かれた。
この地域には、日本一の錫鉱山として有名な明延鉱山と、その明延の鉱石を選鉱する巨大な選鉱場が置かれた神子畑鉱山、そして神子畑と生野鉱山を結ぶ3つの鉱石運搬路が建設された。明延と神子畑選鉱場を結ぶ明神電車(一円電車)、神子畑から生野に銀鉱石を運ぶ馬車鉄道の道。そして生野から姫路の飾磨港を結ぶ「生野鉱山寮馬車道」である。鉱山寮馬車道は、飾磨との間を結ぶ全長49㌔、幅6㍍の産業運搬路で、当時のヨーロッパの最新技術であるマカダム式舗装による日本初の高速道路とも言われている。
私も生野鉱山とのご縁は深い。1度目は1990年代に「静脈空間研究」の一環として各地の鉱山を視察した際。2度目は経済産業省の「近代化産業遺産群」の調査で訪れた2007年前後。そして昨年、「播但貫く銀の馬車道・鉱石の道」が文化庁日本遺産に認定された前後の時期である。
人口減少・高齢化の波に晒されながらも、生野の街並みは、今でも天領時代の面影が色濃く残る。生野まちづくり工房井筒屋、ミュージアムセンターなどとともに、旧生野鉱山職員宿舎の活用などが進み、私も1泊させて頂いた。宿舎の一角は、往年の映画俳優、志村喬さんの実家もあった。日本遺産認定の好機を生かして、朝来市・養父市・姫路市などゆかりの地域連携を強めてほしい。
(東洋大学大学院国際観光学部 客員教授 丁野 朗)