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“沖縄観光を元気にしたい”、お菓子のポルシェ・澤岻 カズ子氏にインタビュー

2013年6月1日
編集部

お菓子のポルシェ代表取締役社長
澤岻 カズ子氏(たくし・かずこ)

「紅いもタルト」誕生とそれから、「御菓子御殿」創業者の35年間

 今や沖縄のお土産の定番商品となった「紅いもタルト」。しかし、創業から35年の間に大変な苦労もあった。作り立ての「紅いもタルト」を製造・販売する「御菓子御殿」の創業者・澤岻カズ子氏(お菓子のポルシェ代表取締役社長)は、アメリカからの輸入菓子が大半だった沖縄に、お菓子文化を生み、定着させた。地元のお客様に支持されながら、「沖縄観光を元気にしたい」と話す澤岻社長にインタビューした。

≪沖縄に「お菓子文化」生む≫

 菓子製造販売業をスタートした当時は、沖縄復帰(1972年)の時期と重なり、米軍基地の中で働く多くの人たちが解雇されたため、その人たちを雇用しながら、まずはレストランを始めました。そのレストランの一角で、アメリカ仕込みのドーナツやチョコレートケーキ、アップルパイなどを作って販売しました。あつあつのドーナツや焼き立てのお菓子の販売はとても人気を集めました。レストランの方は朝から夜中までの仕事がものすごく大変で、また、それほど利益が出ているわけでもなかったので、思い切って4店舗あったレストランをすべて閉店し、菓子製造販売業をスタートしたのです。

 当時、私たちが作れるお菓子は、アメリカ仕込みのドーナツやチョコレートケーキ、アップルパイのわずか3品だけ。でも、「やるからには成功させたい」という強い思いがありました。

■3品のお菓子から

 私の出身地である読谷村の周辺では、30年以上前は、スーパーマーケットなどはなく、雑貨店しかなかったので、その雑貨店に作り立てのお菓子を置かせていただき、売れた分だけお金をいただくという委託販売を始めたのです。地元からそのような取り組みを始めたのですが、これが大きな評判を呼びました。地域の皆さんにもよくしていただき、近隣の市町村まで営業活動を広げていくことができました。当時は20坪ほどの借家で、たった3品の小さな店舗からのスタートでした。やがて工場・店舗併設の新社屋を読谷村につくり、北部地域や那覇市内にも販路を広げていくことができました。少しずつ自信もついて、沖縄全域にお得意様もできました。

 営業を始めて7年目の1986(昭和61)年のことです。読谷村では「紅いもを使って村おこしをしよう」という取り組みが始まり、私どもに読谷村商工会から「紅いもでお菓子が作れないものか」と相談がありました。当時は紅いもを使ったお菓子などはまったくありませんでしたし、紫色は食に合わないと言われましたが、あえて素材の紫色を生かした紅いもタルトを開発したのです。

 読谷村は、戦前は紅いもの産地として有名で、多く作られたそうですが、戦後は主食だった紅いもが米やパンにかわり、大半を占めていた家畜の飼料も配合飼料となり紅いものニーズはなくなったため、紅いも農家が少なくなって、紅いもの仕入に苦労しました。

 今では役場と農業試験場の連携で品種を開発しておりますが、当時は良質な紅いもを探し集めては選別を繰り返し、リスクを負いながら「経験の中から一つひとつ学んでいく」という忍耐力を必要とする仕事でした。「紅いもがない」事情と合わせて、「品質を上げていかなくてはならない」ということに苦労しました。読谷村も協力的で、商工会も物産展やシンポジウムを開くなど、マスコミに紹介する機会を作っていただきました。私たちがリスクを負いながら作り続けた結果、地域の方々もお土産として積極的に紅いものお菓子を買っていただき、“村ぐるみ”での取り組みでした。

 そのうちに、「村おこしの成功例」として全国的に話題になっていきました。これによって、県内外から視察研修として多くの方々が訪れて来るようになりました。1991(平成3)年に新社屋・新工場を作ることができたのもそのおかげです。沖縄県は製造業が少なく、「成功モデルになってほしい」と商工会も後押しをしてくれました。

 そのころの沖縄の一般的なお菓子は、サーターアンダギーやちんすこうなど昔ながらのお菓子と、アメリカからの輸入菓子(チョコレート)や、本土で沖縄のお菓子らしく作られたものばかりでした。「御菓子御殿恩納店」がオープンした2001年ごろも、8割ぐらいが本土や輸入菓子でしたが、画期的だったのは1995年から5年間、「沖縄のお菓子を沖縄発のすべての飛行機に乗せましょう」と、飛行機の茶菓子に、当社の紅いもタルトや、沖縄の素材で作ったお菓子が採用されたことでした。それ以降、観光客が読谷村の小さな店まで地図を探しながら来ていただけるようになったのです。

■観光見学工場を作る

 全国に4―5軒ほどあったと聞いていますが、「観光見学工場を作りたい」というのが、私の長年の夢だったのです。「名前は『御菓子御殿』にしよう」と考えていました。「沖縄らしい首里城の正殿をイメージした建物にしたい」と思い描いていました。

 しかし、バブル崩壊後の景気低迷などで、なかなか融資が上手く行かなかったのです。そのころ、1997(平成9)年に、那覇市の国際通りの三越の向かいに13坪の小さなお店(現在の「牧志店」)を出店したことが話題を呼びました。バスガイドさんらが口コミで「紅いもタルトは美味しい」と紹介して下さり、そのうちに金融機関にも評価していただき、念願の「観光見学工場」を備えた「御菓子御殿恩納店」をオープンすることができました。

■地元に愛される店に

 私たちは開業当時から「地元に愛される店づくり」に取り組んできました。身体にやさしい無着色・保存料も使わない「作り立て」のお菓子を売りたいというのが創業からのコンセプトです。このため、「紅いもタルト」は、少なくとも翌日までに完売できるように、おおよその販売予想を立て、売れる分だけを作ることを基本としています。また、地元「沖縄県のお菓子屋さん」として定着していますので、今も変わらず地元に支持される店づくりを目指しています。昨年オープンした「やんばる憩いの森店」も、観光客や地元のお客様でにぎわっております。

 2001年に夢でありました「御菓子御殿恩納店」が誕生しましたが、私の人生で一番苦労したのが、この恩納村の御菓子御殿の開業です。1996年の計画から6年かかりました。大変でしたが、この期間に諦めていたら、沖縄県の菓子業界は今でも輸入菓子が大半を占めていたかもしれません。しかし、開店と同時に自分たちの予想を超えるお客様にご来店いただけました。オープン直後には、9・11テロが発生し、沖縄観光は大打撃を受けましたが、地元のお客様に助けられました。その後、恩納店も軌道に乗り、私たちの原点である読谷村に2005年、本店となる「御菓子御殿読谷本店」を移転新規オープンし、また04年に那覇市の「国際通り松尾店」をオープンいたしました。

 商品を作っても必ず売れるわけではなく、リスクを負いながら売れるまで作り続けました。商品開発で美味しいお菓子を作っても、多くの人に知っていただき、売れるまでには相当な時間がかかります。でも頑張ってきたおかげで今があるのかなと思います。

 御菓子御殿恩納店で、紅いものお菓子を作ることや、観光客向けの見学工場を作ったのも沖縄県で初めてのことでした。前例がないということでとても大変でした。現在では、御菓子御殿恩納店・読谷本店・松尾店の3店舗の工場で紅いもタルトを1日平均9万個製造し販売しています。3つの工場を1日中フル稼働して、多い日には15万個を製造し、ありがたいことに現在でも販売は伸び続けていますが、最近では類似品が出過ぎてお客様が混乱してしまうのです。私たちは、全国どこでも買える商品ではなく沖縄に来ていただいた方々にお土産としてお持ち帰りいただきたいのです。これからも沖縄の素材にこだわったお菓子を作り、沖縄発のお菓子を買いたいという多くの声に応えていきたいと思います。

     ■ □

 現在では新商品の「紅いも生タルト」が好評です。今年3月7日に開港した新石垣空港にも離島で初めて出店し、販売も順調です。

沖縄歴史民俗資料館外観

民俗資料館に展示する琉球創作人形

 沖縄本島北部の新たな観光名所として、名護市に昨年オープンした「やんばる憩いの森店」には、ヘゴの原生林と今年4月に「沖縄歴史民俗資料館」を開館しました。資料館の内部には、これまで当社の会長・澤岻安信が収集してきた人間国宝・金城次郎氏の陶器や、漆器、民具、貝など約1万点を展示しています。また、琉球創作人形を1千体そろえ、沖縄の祭事行事などを再現しています。沖縄を代表する名工の焼物や懐かしい民具で子供たちの教育の場や北部地域の発展に貢献したいと思っています。

 御菓子御殿恩納店では「紅いもタルトのお菓子作り体験」も行っています。お客様の声を聞きながら、ニーズに合わせてさまざまな事業を展開しています。

■皆さんに支えられて

 創業当初から商品の箱や名刺にも「やさしい心くばりのポルシェ洋菓子店」と書いてスタートし「気くばり、目くばりのある仕事をしたい」と心がけています。注文が入れば作り立てを美味しいうちにお届けしたり、お客様の立場になってお客様が喜ぶことを第一に考えてきました。

 6月で35周年を迎えますが、従業員や地域の皆さん、観光のお客様に支えられたことに感謝しております。

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