〈旬刊旅行新聞10月21日号コラム〉美しき「転調」の世界 正統を装いながらの転調に酔いたい
2018年10月21日(金)配信
「夢がある空間」と感じる身近な場所は、旅行会社の店舗とパン屋さん。つい足を踏み入れたくなる。パン作りは大変な作業だと傍からも分かるが、出来上がったパンが並ぶ光景は、人を幸せにさせる力がある。
アーネスト・ヘミングウェイの小説で、スコット・フィッツジェラルドとリヨンからパリへのドライブの最中、朝にホテルでこしらえてもらったトリュフの味付けをしたロースト・チキンと、マコンの辛口の白ワインとともに、美味しいパンを食するシーンがある。すごく気に入っている。旅とパンはとても相性がいいのだ。
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旅先では、しばしばご当地の駅弁を購入する。振り返ると、新幹線や特急列車の中では、パンよりもごはんを選ぶ機会が多かったことに気づく。
それでも、何回かに1回はサンドウィッチを買う。サンドウィッチは味の当たり外れが大きい。防腐剤の匂いがするものは耐えられない。手間がかかるが、やはり手作りに限る。
個人的に好きなものは、キュウリとハムを挟み、マヨネーズに辛子を少し強めに効かせたものだ。ワインのつまみにもなるし、それだけで一気に大人の味になる。
白いパンに挟まれたキュウリのシャキシャキとした瑞々しい食感を楽しみながら、そのうちにハムの深い味わいと、辛子のアクセントが少し遅れて効いてくる。重層的であり、協奏の一瞬が味わえ、「もう一度……」を求める。ひと口の世界で、幾度か転調が生じ、異なる世界を堪能できる。
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一流の料理人は、この転調を上手に操る。一見、何の変哲もないコロッケであっても、最初から最後まで単調な味付けではなく、途中から「別世界への旅」が仕掛けられている。最初に驚くような美味を感じても、ずっと同じ味であれば、感動は薄れていくものだ。
小説や映画も優れた作品には、起承転結の「転」がドラマチックに仕込まれている。漆黒の夜空に花火が描く世界もそうだ。華麗に開いた大輪の華に感嘆の声が漏れ、キラキラと別の色彩に輝きながら散っていく様に、再び歓声が上がる。
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一方で、最近見た目の奇抜さや、パフォーマンスに力を入れる創作料理などを売りにする料理店によく出会う。だが、肝心の味が一本調子では、本当の感動を与えることはできない。「写真映え」など、安易なサプライズや感動を強要させたがる経営者に、この類が多い。
旅館も到着したときには、オーソドックス(正統的)な感じで迎えながら、上質な転調により、隠し玉を徐々に効かせ始めるというのがいい。さりげなく垣間見せる宿の底力に、宿泊客は唸りたいと思う。
転調するためには、転調を効果的に酔わせる基調の正統な美しさが必要だ。その心地よい流れから世界を一転させ、驚かすには周到な準備と、力技が要求される。のっけからサプライズを起こして、「あとはその勢いで」というスタイルとは、根本的な部分が異なる。
ストレートさがうける場合もある。新鮮であり技巧を排した潔さと、それゆえに直線的な強さもある。しかし、目や耳、舌の肥えた客には、何の捻りもない「作品」に退屈さを感じてしまう。正統を装いながら、内側に秘めた「転調」の絶妙な加減に、知らずうちに心が震えるのである。
(編集長・増田 剛)