「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(165)」国後島を見渡す半島と幻の集落(北海道標津町)
2018年10月23日(火) 配信
北海道根室半島と知床半島に挟まれた標津町と別海町。その地先に半円形を描くように伸びた不思議な野付半島は、古くから国後島の渡海路として利用されてきた。対岸には、国後島の山々が手に取るように見渡せる。
その半島の先端に、江戸時代「キラク」と呼ばれる幻の集落があった。地元伝によれば、ここには遊郭もあったという。残念ながら、その正確な記録はないが、集落はロシアとの交易や北前船の荷を受け入れた拠点であり、正式には野付通行所という。
野付半島は標津町の付け根から、鳥の嘴のように大きく湾曲した日本一の砂嘴(さし)である。知床半島羅臼沖には2千㍍もの深い海溝があり、この海溝に沿って流れる速い潮流で削られた土砂が流れ着き、長い年月をかけて形成されたものだという。従って、土砂流量の変化によって砂嘴は成長したり衰退したりを繰り返す。通行所のあった遺跡の多くは、残念ながら今は海面下に沈んでしまっている。しかしその遺跡跡からは、食器や鉄鍋などの生活用品が散乱する姿を、今でも確認することができる。
野付通行所は、記録によれば1799年に設置され、支配人と用人やアイヌの人足たちが詰めていた。幕末、1845―59年、この通行所の支配人を務めた加賀伝蔵はアイヌ語通詞であった。北海道の名付け親として知られる松浦武四郎とも親交があり、武四郎とともにアイヌを庇護した人物としても知られている。司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、江戸時代に北方交易で活躍した廻船業者・高田屋嘉平衛が登場する。実は、嘉平衛がロシア船に拿捕されたのも、この野付半島沖である。事件の発端となった軍艦長・ゴローニンも国後島で捕縛され、野付半島を経由して松前に送られたという因縁の地でもある。
この地の先住民であるアイヌは、漁業資源に恵まれたこの日本列島東辺の地を「メナシ(東方)」と呼んで住み続けた。近隣にあるポー川流域の台地には、伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡と称されるおびただしい数の国史跡の竪穴住居跡がある。また、海に面した高台には、「チャシ」と呼ばれる砦のような施設が数多くある。祭祀施設のようでもあるが、和人との戦いが激しくなって以降は、砦としても機能していたものと思われる。
まことに謎の多いこの地域だが、中標津空港はもとより、女満別空港、釧路空港からも近い。周辺には、世界遺産知床や、食の宝庫として人気のある釧路・帯広エリアなどがあるが、観光的にはまだまだ空白地帯でもある。
アイヌと和人、ロシアとの濃密な交易、広大な根釧平野の酪農開拓の歴史など、実に魅力的な資源に恵まれている。最近は、野付半島に生息するオオタカ・オオワシなどの大自然を求めて英国からの写真マニアも増えたという。ここは北の大地に最後に残されたアルカディア(理想郷)かもしれない。
(東洋大学大学院国際観光学部 客員教授 丁野 朗)
今さらながら拝読しました。遠い過去何度も中標津や浜中に行きました(ピンポイントの仕事でしたが)が、初めて知りました。しかし、確かにこの地域には、何かあると思わせる風情があり、海岸付近の景観や気候、住人に至るまで、同じ日本なのかと感じさせられるような、迫力を感じていました。