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水戸の明治維新 市内に残る斉昭公の想いを辿る

2018年10月25日
営業部:後藤 文昭

2018年10月25日(木) 配信

楽寿楼から千波湖を望む

「明治維新」150年の節目に当たる今年は、日本各地で記念事業が行われている。明治維新にいたる歴史の流れの中で「水戸学」による「尊王攘夷」の考えは、討幕に大きな影響を与えた。茨城県はこのほど、明治維新にいたるまでの水戸藩の役割や功績、「水戸学」と「明治維新」の関係、明治維新後も受け継がれてきた精神を学ぶツアーを実施。水戸藩9代藩主徳川斉昭が整備した「偕楽園」や「弘道館」などを巡りながら、幕末の水戸の歴史と魅力を紹介する。

 斉昭は、文武修練の場「弘道館」と、修業の余暇に心身を休める場「偕楽園」を対の施設として整備。「一張一弛」(厳しいだけではなく、時にはゆるめて楽しませることも大切)という孔子の教えを基にした。両地には、多くの梅が植えられ、現在では観梅の名所となっている。

陰陽の世界が広がる場

 偕楽園は、1842(天保13)年に開園した。園内は孟宗竹林や大杉林の小路が続く「陰の世界」と、梅林や千波湖の眺望が広がる「陽の世界」で構成されている。好文亭表門から散策を開始することで、その変化を楽しむことができる。偕楽園は、開園当時から藩主藩士、庶民に開放する目的で造園された。

 復元されている藩主の別邸と「奥御殿」からなる「好文亭」は、位置や建設意匠などを斉昭自ら定めた。漢詩作成の際に辞書替わりとして使用した8千の韻字が書かれた4枚の板戸、1階の調理室と3階を結ぶ「配膳用昇降機」などさまざまな工夫が施されている。建物は3階建てだが、外からは2階建てにしか見えない不思議な外観も見逃せない。藩主を警護する侍の控室「武者控室」が2階にあるからなのだが、急な階段を上った先に隠されていて中からも気づきにくい。

 3階は、藩主の空間である「楽寿楼」。斉昭はここからの眺望を「西に筑波の峰を望み、南は千波湖に面し、城南の景勝一目で見渡せるところ」と評している。千波湖の大半が埋め立てられてしまい当時の景観は見られないが、水戸のまちや千波湖などの眺望を満喫できる。

「水戸学」の発展の場

 弘道館は、水戸藩の藩士とその子弟が学んだ藩校。徳川15代将軍慶喜もここで学んでいる。1841(天保12年に)仮開館。その後も施設の整備が進められ、57年(安政4)年に本開館した。「大日本史」編纂の過程で成立した「水戸学」発展の中心としても機能した。藤田幽谷や会沢正志斎ら斉昭に登用された学者によって主張された「後期水戸学」は、尊王攘夷思想によって諸般の改革派に大きな影響を与えたとされる。

 敷地内には正庁や医学館、調練場などのほか、孔子廟や鹿島神社が建学の精神にそって配されていた。しかし、1868(明治元)年に引き起こされた藩内抗争によって医学館などが焼失。現在まで守られてきた正門や正庁には、その際の弾痕が今も残っている。また同年4~7月まで恭順謹慎生活を送った「至善堂」も現存する、水戸の幕末を実感できる場所。正庁諸役会所(来館者の控室)の床の間には、水戸藩を象徴する言葉「尊攘」の掛軸が懸けられている。

慶喜が恭順謹慎生活を送った「至善堂」
尊攘の掛軸

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