「女将のこえ215」石上 智子さん、鮪の御宿(静岡県焼津市)
2018年10月28日(日) 配信
□言葉の贈り物
鮪をメインに一皿一皿が美味しい夕食。長男の将士さんが腕を振るう。テーブル上の和紙には「一華開五葉」と、筆で大きく書かれていた。女将による言葉のおもてなしだ。複数人ならば、それぞれに異なる言葉を直感で書く。
「なぜわかったのと、驚かれますが、どの方にどの言葉を贈るかは、ご本人が呼び寄せる言葉との縁に委ねています」と智子さん。
石上で出会った言葉に勇気を得、起死回生を果たした顧客もいる。書かれていたのは「鷽替」だった。起きた不幸を嘘として吉運に替える意だ。
昔から、言霊というくらいで言葉には力が宿る。以来、この顧客は毎年、泊まりに来てくれるという。
祖父母が営んでいた宿を継いで30年。後継者の父が病気になり、母は付き添いで手が離せない。家族で横浜に住んでいた智子さんだったが、200年続く石上家を思ったとき、「私が」と決意。一家で焼津に移った。
「あの頃は、女将である以上、何でも知っていなければいけない、気の利いたことを言わなければいけないと思い込んでいました。夕方になると神経性胃炎になったり帯状疱疹が出てしまったり…」。当時は子育ても真っ只中でもあり、息つく暇もなかったろう。
だがそのうち、「私がピリピリしていたら宿もピリピリしてお客さまがゆっくりお休みになれないのでは」と思い始めた。
すると、いろいろな言葉が智子さんの心に響き始める。「光はみんなに差しているよ」、「怒っても一日、笑っても一日」と。
そして、8割聞いて2割喋ればいいのだと気づく。「すると、お客さまがぽろっと思いを吐露される場面が増えました。安心して心を軽くしてお帰りいただけたら本望です」
今は、「女将は天職かもしれない」と思える。「経営者ですから苦しいときもありますが、後継の先が見えたことで、先祖が大丈夫と言ってくれているような気もします」
リフォーム計画も進めており、小さな宿ならではの魅力的な空間を提案したいという。これからはシステム化に注力し、将来は週休2日も視野にある。
「人は、居心地の良いところに集まると思うんです。それは、お客さまも働く人も同じ」と、智子さん。
テーブルにあった「一華開五葉」は、人生で種まきしてきたことが大輪の花を咲かせるとき、との思いで書かれたと聞いて感激した。人に伝えた言葉は、伝えた本人が一番受け取っていると聞く。数々の言葉の贈り物が、そのまま石上に降り注ぐように祈った。
(ジャーナリスト 瀬戸川 礼子)
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住所:静岡県焼津市小浜1047▽電話:054-627-1636▽客室数:6室(15人収容)、一人利用可▽創業:1963(昭和38)年▽料金:1泊2食付20,000円~(税別)▽名物「鮪のかぶと焼き」(1万800円)。会食ランチ可(予約)。客室はバストイレなし。男女別浴場あり。磨き抜かれた檜の廊下も魅力。静岡県の女将会あけぼの会の副部長。
コラムニスト紹介
ジャーナリスト 瀬戸川 礼子 氏
ジャーナリスト・中小企業診断士。多様な業種の取材を通じ、「幸せのコツ」は同じと確信。働きがい、リーダーシップ、感動経営を軸に取材、講演、コンサルを行なう。著書『女将さんのこころ』、『いい会社のよきリーダーが大切にしている7つのこと」等。