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「登録有形文化財 浪漫の宿めぐり(92)」(山口県下関市) 玉椿旅館 ≪大阪相撲の関取が開業した温泉宿≫

2018年12月9日(日)配信 

小ぢんまりした正面入口だが奥が深い。横綱の誕生ごとに建て増しした結果だという

大相撲の力士が開業した飲食店はよく聞くが、旅館を開いた例は珍しい。館内には相撲にまつわる雰囲気が色濃く、古くからの相撲ファンなら興味が尽きない。下関市川棚温泉にある玉椿旅館は、そんな宿だった。
 
 旅館名の玉椿が、旅館を創業した力士のしこ名でもある。玉椿は大阪相撲の十両で活躍し、1920(大正9)年の5月場所で引退している。当時は東京と大阪のどちらにも相撲協会があったのだ。
 
 旅館の開業は1923(大正12)年。その2年前に温泉の浴場を開き、旅館へと発展したものである。建物は浴場オープンの頃の建築とされているので、当初から旅館営業を考えていたのかもしれない。歴史の古い川棚温泉は、宿へ泊って外湯へ通う湯治スタイルだったから、玉椿旅館は川棚温泉で初めて内湯を備えた宿になったという。
 
 建物は木造2階建てで、全館が登録有形文化財。玄関を入ると第35代横綱双葉山の写真があった。化粧まわしをつけ、太刀を持った堂々たる立ち姿である。ロビーにはまだ髷もない若き玉椿の写真をはじめ、32代横綱玉錦や背広姿の46代横綱朝潮太郎など、大相撲ゆかりの写真がずらり。「引退後も相撲とかかわりの深い仕事を多く続けていました」と、3代目女将の藤井晶代さんは言う。玉椿の本名の藤井光太郎の名前で、日本大相撲協会の目代になった確認証も掲示されている。大相撲の地方巡業に協力し、とくに顕著な業績の人に与えられる地位だ。
 
 客室には横綱の名前が付けられた。現在は使用していない客室にも谷風、不知火、双葉などの名が残る。一時は横綱が誕生するとその名を付けた部屋を建て増ししていたそうだ。
 
 今も使用中の客室は4室で、1階の栃木山の間は12畳の本間に2間の幅で床の間と床脇があり、筬欄間の書院障子付き。2階の常陸山の間は猿頬面の棹縁天井で、吊柱の床の間に筆返しのある床脇がついている。梅ケ谷の間は平天井だが、床框の材は黒柿だ。いずれも書院造で控えの間が付き、客室名の横綱の手形が飾られている。
 
 宴会場は2カ所ある。小宴会場の鳳の間は奥行き3尺の床の間や玉杢の天井板が見事だ。そして力強さを感じるのが2階にある80畳の大広間。豪快な折り上げ格天井、両端に4間幅の床の間と舞台が設けられている。床柱はごつごつとした木肌のエンジュの大木で、落し掛けには床の間から床脇までつなぎ目の無い1本の良材を使用。かつては大相撲巡業の常宿であり、大広間に力士たちが並ぶようすは壮観であっただろう。
 
 現在は相撲にかかわる宿泊客は少ないが、女将の晶代さんはあらためて建物と相撲にかかわる歴史の良さを感じている。長女の優子さんもネットでPRし、旅館の継承に意欲的とか。横綱の手形を眺めながら、ちゃんこ料理が味わえるといい。

 

コラムニスト紹介

旅のルポライター 土井 正和氏

旅のルポライター。全国各地を取材し、フリーで旅の雑誌や新聞、旅行図書などに執筆活動をする。温泉、町並み、食べもの、山歩きといった旅全般を紹介するが、とくに現代日本を作る力となった「近代化遺産」や、それらを保全した「登録有形文化財」に関心が強い。著書に「温泉名山1日トレッキング」ほか。

 

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