強者の「ものさし」 ― 小さくても声を上げよう(10/1付)
人類史上最大の出来事とされる18世紀末のフランス革命で、ロベスピエールは生存権というものを提唱した。日本国憲法の第25条にも書かれている「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という言葉の意味を、このごろよく考える。
何よりも先に、我われは健康な生活を営む権利を持っているのだ。だが、福島県第一原子力発電所の事故以来、放射線の線量計を持参する子供たち……。未来の生存権はしっかりと守られているのだろうか。
21世紀は、水と農業と環境と観光の時代である。国民の生存権を守るには、安全な水や食料の確保といった、健康な生命を維持できる環境の維持が第一。その土台の上に、文化的な生活を営む一つの重要な要素として、人的交流を促す観光の推進が不可欠である。
だが、日本が経済産業至上主義であることを、今回の震災と原発事故以降、何度となく痛感した。日本経済団体連合会の会長は、原発推進を声高に叫ぶ。原発事故によってこれだけの大災害を起こした直後でありながらだ。十分な安全性の確認や検証も進んでおらず、国民の同意を完全に得たわけでもないのに、その態度は勇ましい。だが、その勇ましさがどうしても産業の「エゴ」にしか聞こえない。生存し、生活を営むうえで、人にはさまざまな尺度があるが、この国では巨大な経済団体が示す「ものさし」が一番力強い。そのものさしに、政治家や官僚、〝魂を売った〟優秀な学者がくっついてしまえばもう何も怖いものはない。中小企業経営者や個人の感情や尺度、声はものの数にもならない。
9月21日に、東京電力が〝ほぼ人災である〟福島第一原子力発電所事故による損害賠償の基準を発表した。対象は農業や製造業、サービス業など広範にわたるが、観光の風評被害については、「地震や津波の影響もある」との算定で、減収分の2割を減額とした。納得のいく水準からほど遠いというのが実感だろう。〝風評被害〟と第三者的な表現をしているが、実態は「実害」である。原発事故が一定の目途がつくまでは周辺観光地には打つ手がないのだ。予想通り、損害賠償も「強者のものさし」で計られたが、たとえ無力であっても「ものさし」が一つではないことを示していくべきだ。
(編集長・増田 剛)