古くても愛情で変わる ― 僧のように掃除しよう(11/11付)
修行僧はいつも掃除をしている。掃除をするために生きているのではないかと思うほど、掃除をする。なので、修行僧の多いお寺の廊下はぴかぴかに光り、お堂には塵ひとつ落ちていない。歴史を重ねた古い建造物でも、毎日磨きあげればどの場所よりも綺麗な空間になり得ると教えてくれる。自分の頭や心が乱れているとき、清潔なお寺や神社の境内を歩くだけで、心が清められるような気がする。
私は掃除が上手くできない。それに加えて、あらゆるものが手の届く範囲で混沌としている。自分の身の周りが整理整頓されすぎていると、何となく落ち着かず、いつの間にか、元の雑然とした空間に戻っている。情けない。フザケタ話だが、そのような人間でありながら、レストランや旅館に行くと、やはり気になるのが「そこが綺麗に掃除されているか、そうでないか」なのである。
基本的に、私は古いモノの方に強い共感を覚える性質を持っており、古い型のクルマ、古い型のオートバイ、古い建造物などがオーナーによって大事に手入れされているものが街で目に入ろうものなら、いつまでも眺めていたいタイプなのだ。
だから、宿選びをする場合にも、新しい宿よりも、優先的に歴史を刻んできた宿を選びがちである。建物の古さなぞというものは、プラスにこそなれ、マイナスになるようなことは一切ないのだ。法師温泉・長寿館などは、長い間、宿主やお客に愛されてきたのだなということが感じられる良い例である。
先日、山梨県・裂石温泉の雲峰荘を訪れ、露天風呂に入ったのだが、建物自体は相当に古いものだった。しかし、目に付くスタッフは皆掃除をしていた。庭も一見、無造作に映っても、宿主の美学のようなものを感じさせる箇所が幾つかあった。
もう1軒、別の日に山梨県の秘湯の宿に行ったのだが、小屋のような脱衣所の床があまりに汚れていたので、さすがに苦笑してしまった。
寿司屋でも天ぷら屋でも、一流といわれる店はカウンターが磨きあげられている。どれほど清潔かが勝負のようなものだ。客からの注文を待つ間も常にカウンターの中で厨房を磨き上げている。汚いソースや醤油の入れ物にはうんざりさせられる。僧のように掃除を懸命にするだけで、お客が多く訪れる可能性もある。
(編集長・増田 剛)