師走 ― 今年の旅を思い出そう
はや師走である。最近、1年間を振り返ってもどのような出来事が起こったのか、あまり思い出せなくなっている。12月になって、楽しかった記憶を一つずつ思い出すのは、案外大切なことかもしれないし、何よりもまず暇つぶしになる。とりわけ旅の記憶は掘り起こしていくと、これがわりと面白い。駅前のボロい定食屋で普通の味の親子丼を食べたなとか、あのときの女の子はどうにかできなかったかなとか、そんなことだ。
出張で、ある地方のビジネスホテルに泊まったときのこと。晩ご飯を食べに街に出て、気取っていない庶民の味方っぽい、正しい焼き鳥屋に入った。店内は賑わっていた。カウンターに1人座り、ねぎまや、黒板に書かれた今日のお薦め品の熊本産馬刺しなどを摘みながら、グレープフルーツサワーで流し込み1日の充実感に満ち溢れていた。右隣のL字型に折れた席にカップルが楽しそうに話していたのだが、次第に2人の会話の雲行きが怪しくなってきた。男が沈黙しがちになり、女は男の逃げ場を一つずつ塞ぎながら、じりじりと追い詰めていく。よくあるパターンだ。私は参鶏湯の熱いスープを飲みながら、2人の静かではあるが激しい口論を聞いていた。火の粉の降りかかる懼れのない他人の修羅場は、傍で見ている分には楽しいものである。ふと、静かになったので視線を向けると、男はいつの間にか席を立ち、女だけが一人残されていた。攻勢一方だったときの彼女は「嫌な女」だったが、ひとりぼっちになると反省しているのか、ずいぶん心細く映った。「ヘンな話聞かせてごめんなさい。せっかく1人で飲んでいたのに……」と、彼女はL字型の角度から私に話しかけてきた。「いえ、全然。よくあることですから」。意味不明な返答をしたまま2人は、それぞれのお酒を静かに飲んだ。一緒に飲みませんか?と誘うべきか、でも男が戻ってきたら面倒くさいことになるな、などと胸の中で呟きながら、私はグレープフルーツサワーを飲み続けた。こんなつまらぬ出来事も、旅先だと重要な意味を持つ。
さて、12月。年の終わりに旅ができるとしたら、温泉宿を7泊8日くらいで転々とする旅をしたい。大きな旅館でも、小さな宿でもいい。人好きなご主人や女将さん、仲居さんがいる宿で静かに一晩ずつ過ごすのが夢である。
(編集長・増田 剛)