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「登録有形文化財 浪漫の宿めぐり(94)」(佐賀県唐津市) 旅館水野 ≪唐津湾沿いに建つ紙問屋の別荘が前身≫

2019年2月6日(水) 配信

正面入口の薬医門。豊臣秀吉が朝鮮出兵に使った名護屋城の解体資材だったという

 

瀟洒なたたずまいだった。入り口の武家屋敷門は唐津藩家老屋敷の門を移築したもの。本瓦葺きの薬医門で、古色を帯びた風格も見事である。玄関までのアプローチは松などの茂る緑濃い中を、打ち水された敷石を踏んでゆく。背後に唐津湾が広がる中で、造りと手入れのいい館内を期待させた。

 創業は1953(昭和28)年。割烹主体の宿として始まった。初代の立花徹三は会社勤めを中途退職し、腕のいい板前を雇うとともに自分でも包丁を握った。サラリーマン時代に仕事上の付き合いもあって各地の料亭を回るなど、舌が肥えていたのだろう。料理の評判が良かった。沖の海水を利用して、唐津で最初の生簀を作るなど研究熱心でもあった。2代目である現主人の立花研一郎氏も会社勤めから板場へ入った転職組だが、味を受け継いで唐津で定評ある料亭としての格を保っている。

 建物は観風亭と呼ぶ本館部分と、1983(昭和58)年に建てられた新館、そして自宅部分が続いている。客室数は全8室。数寄屋風建物の新館からは唐津湾が間近で眺めがいい。登録有形文化財になっているのは観風亭と表門の武家屋敷門である。
 

 観風亭は1938(昭和13)年の建築。初代・徹三の父の冨太郎が経営していた和紙問屋の別荘だった。雨がなびくことで吹く風が観える、というのが観風亭の名の由来だという。旅館の玄関でもある観風亭の玄関は、入母屋の破風に格天井。上がると3畳間の式台があり、その奥に今は応接間や談話室として使われている松の間がある。松の間は床を板敷に改装。炉を切り、杉の柾目板の天井や菱型格子の障子が風情を伝える。

 観風亭の客室は20畳敷きの百合の間1室だけだが、本間12畳半と次の間7畳半にふすまで仕切ることができる。2間とも棹縁天井で天井板は杉の柾目。天井高が3㍍以上あり、広がりを感じる空間だ。本間は2間半ある部屋の幅いっぱいに床の間と床脇を設け、薄縁を敷いた床の間はケヤキの床框に杉の四方柾の床柱。幅一間の書院をつけ、しっかりとした書院造である。また床を地面から2㍍近くも上げたため、風通しが良く建物の痛みも少ない。2005年に起きた最大震度6弱の福岡県西方沖地震でも、ほとんど被害はなかったそうだ。紙問屋の別荘であったころ、冨太郎の妻はここで能や茶を楽しんだという。静かな波音を近くに聞き、雅やかな時間が流れていたことだろう。

 広間であるため、観風亭は宴会場としても使われる。料理の素材は玄界灘のタイやアラ、呼子のイカ、唐津の赤土の土壌で育つ野菜類など豊富だ。名物料理では「とんさんなます」が知られている。長柄のあるひしゃくに新鮮な魚介を盛った料理だ。太閤秀吉にちなむ話があり、「殿様なます」が名称の由来とか。海近くの風雅な中で、建物と味が双方を引き立てる。

 

コラムニスト紹介

旅のルポライター 土井 正和氏

旅のルポライター。全国各地を取材し、フリーで旅の雑誌や新聞、旅行図書などに執筆活動をする。温泉、町並み、食べもの、山歩きといった旅全般を紹介するが、とくに現代日本を作る力となった「近代化遺産」や、それらを保全した「登録有形文化財」に関心が強い。著書に「温泉名山1日トレッキング」ほか。

 

 

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