〈旬刊旅行新聞3月1日号コラム〉美しい旅人 異邦人が振る舞うべき謙虚な姿勢
2019年3月1日(金) 配信
日本を訪れる外国人旅行者が増加し、全国各地で外国人の姿を目にするようになった。外見でも外国人は目立つ存在だが、街を歩く姿や食事をする態度でも、日本人ではないと気づく。
リュックを背負ったバックパッカーは一目で旅行者と分かるが、都市の繁華街であろうと、田舎の田園風景の中であろうとも、不思議と周りの空気を汚さない。いや、むしろ協奏を生みながら、さらにその存在が屹立して映る。
一方、大勢の団体客の場合、他所の空気をそのまま旅先に運んでくるものだから、バスから降りてきた集団だけ異質な空気が塊となって、どのような場所であっても違和感が先立つ。
これは、バブル経済絶頂期に日本人が大挙してパリの高級ブランド店に入り、仲間内の緩んだ関係から生じる空気を遠慮なくそのまま持ち込んだ時代を思い出す。何よりも雰囲気を大切にする高級ブランド店にとって、経済効果は大きいが、「好ましい客ではない」ことは容易に想像できる。近年では、中国の爆買客などもどこか冷やかな視線を浴びせられていたのは、記憶に新しい。
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海外旅行をするときは、いつも自分の存在が、異国の街角で違和感を漂わせていないかと気になる。
初めて訪れる国では、首と目をあちこち動かして歩くし、突然立ち止まってバッグから派手な表紙のガイドブックをめくったりもする。その姿はきっとサマになっていないだろう。
世界中を歩き回るバックパッカーは、初めての街であっても冷静沈着である。表情は旅の厳しさを知り尽くし、甘みはない。しかし、長く孤独な旅によって醸成された上質な諦観と、いつしか身に付けた自然な笑みによる柔和さによって、美しいシルエットとなる。写真家でなくても、しばしば被写体としてシャッターを切りたい衝動に駆られる。
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スティングの「Englishman in New York」という曲が好きで、秋から冬にかけて海外の街角を歩くときは、コートを着て口ずさみ、成り切る。哲学的な詩の中で、異邦人が振る舞うべき謙虚な姿勢もしっかりと暗示されている。
旅人は、完全に海外の街に溶け込む必要はない。自分の生まれ育った国の文化や歴史、風土の香りを纏いながら、訪れた異国では謙虚さや礼儀正しさ、礼節を持つべきであると、この詩の私なりの解釈である。
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旅先では、歩く姿と同様に、食事をする姿勢が大事だと思っている。
例えば、生活文化の異なる人が、京都の高級料亭で日本酒を飲みながら、料理を堪能している姿が美しいと感じることがある。独特で強い個性を持つ京都の料亭文化と拮抗する教養と背景をその人が持っていなければ、釣り合いが取れず、浮いた存在になってしまう。また、大人数では輪郭も薄れる。1人でこそ際立つ、絵になる構図である。
アジアのディープな食堂でも同じだ。衛生状態が少し不安に感じるような店で1人、生活者と同じ安価な料理を食べながら、現地の酒を静かに体内に受け入れる旅人になりたいと思っている。現地に負けないほどの自国の文化をしっかりと背負いながら、決して馴れず、驕らず、謙虚でいたい。そのためには日々の精進が必要だと感じている。
(編集長・増田 剛)