「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(173)」島嶼部の魅力を活かす(広島県呉市)
2019年6月23日(日) 配信
広島県呉市といえば何をイメージされるだろうか。少し歴史好きの方なら、間違いなく旧海軍鎮守府や司令長官官舎、戦艦大和を建造したドック(船渠)などを思い浮かべることであろう。
事実、呉市の観光客の圧倒的多数が、海事歴史科学館「大和ミュージアム」を訪ねる。まさに人気集中だか、他のエリアへの回遊性に乏しいのが最大の課題である。
その呉が、「中世からの鎮守府であった」と言えば驚かれるだろうか。
鎮守府のある呉湾から外側に向けて少し走ると、平清盛が開削したといわれる「音戸の瀬戸(おんどのせと)」がある。狭い海峡で、干潮時には歩いて渡れたため「隠渡」と呼ばれたのが由来である。この音戸のある地域一体は「警固屋」と呼ばれる。現在の地名は後の毛利氏の時代だが、ここに警護の武士を駐屯させたことが由来である。つまり、この地は古い時代から「鎮守の地」であったのである。
海峡の対岸には、清盛が遣唐使船を建造したとされる倉橋島が続く。その復元遣唐使船のある長門の造船歴史館とその周辺の遺構は、この地が古くから造船の島であったことが容易に推測できる。
呉に限らないが、瀬戸内の島々は海の交易拠点として栄えた。その一つ、下蒲刈島は、世界記憶遺産となった朝鮮通信使の拠点であった。往時の通信使の行列や接待用の料理を再現した御馳走一番館(朝鮮通信使資料館)や松濤園など、誠に魅力的な場所である。
さらに、突端にある大崎下島には、重要伝統的建造物群保存地区を擁する御手洗の集落がある。ここは日本遺産の北前船の寄港地として有名だが、もとは伊予国(現愛媛県)の河野氏に属する村上水軍が警護していた。室町時代後期、ここを安芸国(現広島県西部)の小早川氏が掌握し、以来、広島藩の先端基地として栄えた。
こうした魅力に満ちた呉市の島々だが、交通の不便さから、観光客はなかなか足を運びにくい。蒲刈から大島下島に続く「とびしま海道」は、近年その景観を知るサイクリストたちが徐々に増えている。
現在、広島市に来訪する訪日外国人客は250万人を超えている。しかも欧米系の観光客が多い。呉市の島嶼部の魅力は、間違いなく彼らを惹きつけるであろう。
その呉市では、来年度から「観光振興ビジョン(仮称)」の策定を予定している。この計画策定においては、海軍鎮守府のある中心部をさらに活かすとともに、これら島嶼部の魅力を引き出す2次交通や観光の受け皿、人材、仕組みづくり、海外向けプロモーションなどが当面の最大の課題である。
筆者は呉で3年前から「観光未来塾」を開講してきた。呉市の地域活性化戦略を実際に担う民間プレイヤーの育成が主目的である。呉の新たな観光魅力づくりを是非とも早期に実現していきたい。
(東洋大学大学院国際観光学部 客員教授 丁野 朗)