【特集No.542】新春鼎談「精神性の高い旅」とは 本来の命がよみがえるきっかけに
2020年1月10日(金) 配信
今年は東京オリンピック・パラリンピックの開催や、訪日外国人旅行者4000万人といったさまざまな目標数値が設定されている年でもある。近年“写真映え”や“経済効果”などで語られがちな観光だが、本紙の新春鼎談では、「精神性の高い旅」をテーマとした。東洋大学学長の竹村牧男氏と、同大学国際観光学部国際観光学科教授の島川崇氏、カラーセラピストの石井亜由美氏の3氏が登場し、見落とされがちな「旅の根源的な力」について語り合った。
【編集長・増田 剛】
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――竹村先生は生涯をかけて仏教や宗教学を研究してこられました。宗教と旅には、深い関係がありますか。
竹村:私は、「人生の目的は何なのか」「自分という存在は何なのか」といった根源的な問いを究めたいという想いがありまして、仏教をずっと学んできました。
一方、宗教学の分野も多少勉強して、学生には例えば、「宗教と旅」などについても話してきました。「宗教と旅」には切り離すことができないものがあり、それには大きく分けて2つあると思っています。
1つは「求道の旅」です。色々な師匠に会いに行って、自分の境地を高めていきながら、最終的に宗教的な目的を達成するというものです。雲水さんは師匠の下で修行をしながら、一定の修行が終わると行脚に出て他の老師方に学び、さらに境涯を深めていきます。ときには荒野に1人で行って孤独のなかで、「絶対的なものと対話する」などの経験を経て、宗教的な境地を高めていくこともあるでしょう。
もう一つは「伝道の旅」です。「自分が得たものを皆さんに伝えたい」という想いから旅をするものです。釈尊自身が雨季には一定の場所にとどまり、乾季には行脚して「教え」を人々に広めていきました。
一遍上人は生涯、旅に生きた人でした。「一所不住」(いっしょふじゅう)、まさにさすらいの人生を送りました。それは、何か宗教的な体験を求めて旅をしたというよりは、「自分が得たものを人々に伝えたい」という想いで、念仏札を配りながら人々と結縁して救済していこうとするものでした。そういう旅のあり方もあるのではないかと考えます。
――一般の人々の宗教的な旅については。
竹村:お遍路や巡礼などの旅がありますね。日本では四国八十八ヶ所のお遍路が有名です。
キリスト教では、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼などがあります。一般に、西洋では一つの聖地に向かって行って帰ってくるスタイルです。日本では、札所を巡拝していくようなかたちが特徴的です。この巡礼やお遍路は、日常の中で疲れたり、行き詰まったりした人が、その旅に出ることによって、「もう一度、生命力を回復して、日常に戻っていく」という機能を持ったシステムだと思います。
お祭りなどにも同じような意味合いがありますが、一定の時期にしか催されません。しかし巡礼は“いつでも、誰にでも”開かれています。深刻な状況に陥った人がそれに参加することによって、本来の命がよみがえってくるきっかけになっています。
そのほかにも神社仏閣の建築や庭園などに心を動かされたり、仏像巡りをしたり、祖師方の宗教体験を追体験したり、意義深い宗教的な旅がたくさんあると思います。
――島川先生は、日本国際観光学会に「精神性の高い観光研究部会」を立ち上げました。
島川:研究部会を創ったのは、石井さんから「精神性の高い旅の研究をしていきましょう」とお誘いを受けて共感したのがきっかけでした。ちょうど大学も、観光も、社会全体が「役に立つものや、対外的なアピール力を競い合うばかりだ」と感じていたときでした。
あるとき、地域の観光資源として、古くから言い伝えられた“パワースポット”の掘り起こしをしていたときに、「エビデンスがないパワースポットなどを、自治体が観光資源として取り上げるのはいかがなものか」といった議論がありました。観光で訪れるものにまで、「〇×に効く、役に立つ」といった科学的な証明が必要だということに違和感を覚えました。…
【全文は、本紙1783号または1月16日(木)以降日経テレコン21でお読みいただけます。】