「観光人文学への遡航(4)」 カントの考える自由
2020年10月23日(金) 配信
人間が追求するべき自由とは何かを考え続けていると、必ずカントにたどり着く。すべての哲学はカントに流れ着き、そしてカントから流れ出るとも言われているように、近代哲学の分野においてカントの位置づけは重要である。
カントの主張でのちの世界に最も影響をもたらしたのが、自由の尊重である。
現代においてもそうであるが、自由とは、自分の意のままに振る舞う、すなわち、自分のしたいことをしたいようにできる状態と捉えられている。したいこととは、往々にして、己の生理的欲求と欲望に忠実に従っての行動ではなかろうか。しかし、実際にそれは、自分が己の欲望の奴隷となっているに過ぎない。カントは自由を厳格に捉えている。彼に言わせると、欲望に基づく行為は、逆に不自由なのだ。
動物と異なる人間らしさとは、「やりたいこと」をやるのではなく、「やるべきこと」をやるところにある。目の前に2つの選択肢があったとき、やりたい方を選ぶのではなく、やるべき方を選ぶのである。今自分が下そうとしている決断は、やるべき道なのか、やりたい道なのか。そのように考えてみると、今まで下してきた決断は、往々にしてやりたい道を選んできたのではなかったか。
しかし、私自身はやりたくはなかったけれど、力を持っている人が言うからしょうがなくこの道を選んだんだという声も聞こえてきそうだ。忖度という言葉がこれだけ一般化し、国家公務員だけでなく、地方でも、そして民間も、あらゆる組織が政権の真似をして忖度が一気に蔓延した。でも、一人ひとりと話してみると、本当はこんなことしたくなかったんだけど、しょうがないからやったんだという言い訳が聞こえてくる。
でも、それも、人のせいにしておいて、結局は、自分の評価を下げたくない、自分が権力者に認められたいがために下した決断であるから、いくら言い訳しても所詮欲望の虜となっているに過ぎない。これはまさに不自由な生き方である。そして、そのような欲望に基づいて下された決断は、善意志から発出したとは言えない。
カントの考える真の自由とは、「自律的に行動すること」である。自律的とは、自分以外のものが下した決定に従って行動するのではなく、善意志に基づいて自分で定めた法則に従って行動するということである。まさに、自(みずか)らに由(よ)るから自由なのである。人が決めたことに乗っかっているのは自由ではない。自らやるべきことを定め、それを無条件に実施するのが、自由である。予算がついたからやる、国から言われたからやる、住民から怒られたからやる、世の中はそんなことばかりである。善意志からやるべきことをやるという機会は、意識していないと、ないに等しい。
コラムニスト紹介
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。日本国際観光学会会長。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。