「街のデッサン(236)」98歳の美貌 渋沢栄一が社会で本当に願ったことは
2020年12月6日(日) 配信
今度、紙幣のデザインが代わって1万円札には渋沢栄一が登場する。渋沢栄一を、お金を使うたびに拝顔できるのは幸せだ。よく言われているように、日本資本主義の父とされている。その資本主義の本質を学んだのは「旅」からである。
栄一は、武蔵国・血洗島村(現埼玉県深谷市)の富裕な藍を扱う農家に1840年に生まれた。血気盛んな性格で、若いうちから商売にも結構な才覚を発揮していた。この時代の地方の豪農たちは農作物の生産だけでなく、商品流通に関係し経済感覚や思想にも開明的な考え方を持っていた。学問や教育も熱心で、栄一もその恩恵を受けていた。
しかし、尊王攘夷を気取る青年が不思議な運命もあるもので、江戸幕府の重鎮であった一橋慶喜の家臣になる。さらに栄一には不本意にも、慶喜が最後の将軍に就くことで徳川将軍家を継ぐことになった。栄一の想いとは真逆であったが、ここでまた運命が微笑む。
幕府にフランスのナポレオン三世から、1867年に開かれるパリ万博への出品と、将軍親族の派遣が要請されたのだ。慶喜はこれに応えて弟の昭武を送ることにし、その随行の1人に栄一を選んだ。随行は総勢20人余り、栄一は一橋家仕官中の実務能力を評価され、庶務・会計係となった。慶喜の将軍家相続に絶望していた栄一は、心機一転させる。使節団一行は横浜を出港し、59日かけてマルセイユ港に到着した。
栄一の職務は書記と会計であったから、まずフランス語を難なく習得し、詳細な日記も付け、これらがのちに大きな役に立った。一番の目的は42カ国が出品した博覧会の参加にあり、最新の蒸気機関や電信・電送の電気技術など近代科学文明の現実を目の当たりにして度肝を抜かれた。逆に漆器、陶器、金工品など日本の工芸品は諸外国に高い評価を得たものの、文明や経済の遅れは明らかだった。
この旅の途中に幕府の瓦解を知らされ、昭武の留学まで支えた栄一も2年余りの生活を終えて余儀なく帰国した。栄一が意図して得たものは、商工業の社会的意味や金融の役割、会社と産業のビジネス実務の知識であったが、もっと大切にしたものがあった。
最近、親しい友人から「鮫島純子さんとお話をする機会があり、どうぞご一緒に」という誘いがあった。栄一を直接知る最後のお孫さんで、98歳になる。お話に相伴したが、現れた純子さんは矍鑠として清楚だった。「祖父の願いは、何よりも世界の平和と誰もが幸せに暮らせる社会でした」という栄一を代弁する98歳の美貌に感動した。
コラムニスト紹介
エッセイスト 望月 照彦 氏
若き時代、童話創作とコピーライターで糊口を凌ぎ、ベンチャー企業を複数起業した。その数奇な経験を評価され、先達・中村秀一郎先生に多摩大学教授に推薦される。現在、鎌倉極楽寺に、人類の未来を俯瞰する『構想博物館』を創設し運営する。人間と社会を見据える旅を重ね『旅と構想』など複数著す。