「観光人文学への遡航(11)」 エミールの家庭教師は褒めて育てない
2021年5月22日(土) 配信
ルソーは1762年に有名な「社会契約論」とともに「エミール」を出版した。この2冊は両方とも人間の自由について述べられたものである。「社会契約論」が自由を制度としていかに構築していくかを論じているのに対して、「エミール」はその自由を担う人間をいかに教育するかを論じている。
架空の孤児エミールの誕生から結婚までの成長を、ルソー自身を体現している語り手の家庭教師の視点で見守っていく物語である。エミールは生まれたときは「平凡そのもの」な子供だったが、家庭教師がエミールに対して理想の教育を施していき、次第に卓越した理想の人格を獲得していく。特徴的なのは、その成長段階によって教育のアプローチが大きく変わっていることである。
教育学で「エミール」を一言で表すと常に「自然に帰れ」と表現されるが、実際に本文のどこにも「自然に帰れ」との文言は登場しない。なぜエミール=自然に帰れになったのか。それは、ルソーは、第1編で乳幼児期、第2・3編で少年期、第4編で青年期と年齢によってその教育アプローチを大きく変えており、そのなかでも、乳幼児期と少年期に関して、自然の中で感性を育てていくことで肉体の感覚と運動を結びつかせることが重要であると説いている。この部分を称して「自然に帰れ」と評されているのであろう。
ただ、このルソーの幼少期の教育はただ自然の中に放置するものではなく、五感の鍛え方が具体的に書かれてあり、ただ自然の中で野生児として生かすのではなく、大人の見守りが前提での自由ということである。すなわち、自由と依存は相対するものではなく、必要なときには適切な指導が受けられることで、初めて自由に自分の力が発揮できるという点が強調されている。
ただし、ルソーは、大人がいなければ生きていけない、いわば従属の関係を構築することは意図的に避けている。そのために自然の中にその身を置いているのであって、幼い子供たちが持つはずのない情念や欲望が不用意な大人たちの教育によってもたらされることを強く拒む。必要もない知識を子供に教え込むのは、自分が有能であるとこれ見よがしに見せつけようとしているだけであって、それは子供を自分の欲望のために利用しているに過ぎない。
最近では、「褒めて育てる」という教育手法が全盛だが、エミールの家庭教師は褒めない。それは、褒めることで、大人が子供を一方的に評価するということであり、それは支配と服従の関係を固定化してしまうことにつながる。そして、子供は好ましい評価を貰いたいという動機が生まれてしまい、承認欲求に支配されてしまうのである。
この承認欲求こそが人間の自由を阻害する曲者なのである。
コラムニスト紹介
神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。日本国際観光学会会長。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。