【精神性の高い旅~巡礼・あなただけの心の旅〈道〉100選】-その6- 源頼朝の二所詣(3)佐奈田霊社と石橋山古戦場を歩く(神奈川県小田原市) 石橋山に眠る与一と文三 頼朝が人目も憚らず号泣
2021年10月2日(土) 配信
源頼朝ゆかりの「二所詣」も後半となり、予定通りであれば、今回は伊豆山神社を参拝する予定であったが、7月3日に土石流が伊豆山地区を襲い、伊豆山神社自体は被災を免れたものの、近隣はまだ復旧されていない。
このため、伊豆山神社はまた時期を改めて掲載することとし、今回は二所詣が伊豆山神社ではなく、箱根神社からスタートとなった要因である佐奈田与一のエピソードを紹介する。
1180年、源頼朝は、北条時政をはじめとする源氏再興を願う東国の武士たちとともに、平氏の一族で、当地を治める山木兼隆を攻め、平氏打倒の旗を揚げた。源氏軍はそのまま勢いに乗り、現在の熱海と小田原の間にある石橋山の谷を隔てて、平氏の大軍と対戦することとなった。初戦を制し、勢いがあるといえど、頼朝に従った武士たちは、たった300騎。数のうえで圧倒的に勝る平氏に対し、劣勢は明らかだった。
決戦のときが迫り、頼朝は、仲間たちに向かって、平氏方の先陣に対し、まず誰を立ち向かわせたらよいか尋ねた。
そのとき、古くからの源氏の御家人で、現在の平塚市と伊勢原市にまたがる岡崎地区に拠点を持っていた岡崎義実が、すかさず自身の子の佐奈田与一義忠を推挙した。佐奈田与一は、現在の東海大学の近くにある平塚市真田を所領していた。親子は忠義に篤く、頼朝は常日頃から信頼を置いていた。義実の強い思いに感激し、頼朝は与一に先陣を命じた。
命を受けた与一は、古くからのお世話役であった57歳になる老臣文三家安に後事を託して出陣しようとしたが、文三は幼いころからずっと苦楽を共にした殿と行動を共にしたいと強く願い、与一はそれを承諾した。
与一はそのとき、ここぞとばかりの一張羅を着て参陣していた。頼朝がこのいでたちでは目立ち過ぎるのではないかと指摘したが、与一はこんな晴れの場に目立たなくてどうすると、颯爽と白馬にまたがった。
与一と文三は敵の先陣めがけて突進した。与一の姿を見て、平家方の武士は組み討ちしようと我れ先にと進んだが、与一の奮戦に歯が立たなかった。与一はそのような下位の首は求めていなかった。劣勢での戦で勝つには、大庭景親または俣野景久といった敵方の将の首を取るのみと最初から決めていた。
そのときだった。
与一の前に俣野が現れた。俣野と与一は、一騎打ちとなり、組んず解れつ、上になり下になりの格闘を続けた。与一は俣野の首をまさに刎ねようとしたその瞬間、刀に血がついてさやから抜けない。
そして与一は痰がからんで大声が出せず、文三の助太刀を呼ぶことができなかった。逆に、俣野の加勢に駆け付けた長尾新五新六兄弟の手により、残念ながら討ち取られてしまった。そのころ、文三も平氏の兵に囲まれ、奮戦の末に討ち死にした。
頼朝はその後、武家政権を樹立し、自分が苦労をしたときの心の拠り所であった伊豆山権現、箱根権現の二所を参拝することにしたのだが、伊豆山権現に行く手前の石橋山に眠る与一と文三の塚に立ち寄り、人目も憚らず号泣したという。
そのため、二所詣を行う際は、先に箱根に行き、三島を経て伊豆山に向かい、最後に、石橋山を通るルートになったという。
現在、与一の戦死した地には佐奈田霊社がある。霊社は完全なる神仏習合のまま現在に引き継がれており、真言宗と神社の要素が1つの社に同時に備わっている。
不思議な空間である。与一の命日である23日には、毎月護摩供養がなされている。
与一の痰がからんで助けを呼べなかった伝説から、霊社は喉の痛みや喘息に霊験があるとのことである。
■旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授、日本国際観光学会会長。「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。